2012年6月30日土曜日

メッサーシュミット Me163(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミット Me163)

メッサーシュミット Me 163 「コメート」(Messerschmitt Me 163 "Komet") は、第二次世界大戦時にドイツ空軍が開発した航空機史上唯一の実用ロケット推進戦闘機。「コメート」とはドイツ語で彗星(コメット)の意。

ロケットエンジンを動力源とした航空機の開発は1920年代には各国で行われていたものの、初期のロケットエンジンは燃焼の制御が難しく、実験は常に爆発の危険が伴うものであった。1937年にドイツのヴェルナー・フォン・ブラウンがエチルアルコールと液体酸素を推進剤とした推力300kgの液体燃料ロケット A1を開発すると、これに着目したハインケル社のエルンスト・ハインケル博士により、Bf 109との制式採用争いに敗れた自社の単発単座レシプロ機 He 112 にこれを搭載した。
1937年6月には離陸から着陸まで全てをロケット動力のみで行う純粋なロケット飛行に世界に先駆けて成功し、ロケット飛行機の実用化に先鞭を付けた

メッサーシュミットMe163 プラモデル・模型等
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2012年6月29日金曜日

B-17 フライングフォートレス

情報元:Wikipedia(B-17フライングフォートレス)

B-17は、1935年よりアメリカ合衆国のボーイング社が開発したの四発重戦略爆撃機。
第二次世界大戦では、初期の太平洋戦域や、中期までの北アフリカ・地中海・フランスでの偵察と戦術爆撃、そして後期1943年半ばからのドイツ本土への戦略爆撃に本格的に使用された。特にドイツ本土爆撃でナチス・ドイツの工業力を空から喪失させヒトラーを敗北に導いた。高高度での優れた性能と強い防御能力はドイツ空軍を悩ませた。
開発は、当初沿岸防衛用として哨戒と敵艦の攻撃用に立案され、後(1934年)に「敵国の軍隊よりもさらに重要である、その国の工業組織を目標」にする「護衛なしでやってゆける」爆撃機をめざして行なわれた。
愛称はフライングフォートレス(Flying Fortress=空飛ぶ要塞)。なお、沿岸防衛用の「空の要塞(敵艦隊を防ぐ為の空飛ぶ城)」として、予算獲得の為にこの愛称がつけられた。強力な防御力からこの愛称を付けたのではない。
初期生産のD型、太平洋で活躍したE型、ドイツ本土爆撃のため防御力を増したG型がある。なお日本本土爆撃には総合性能を向上した「超空の要塞B-29」が用いられた

B-17 プラモデル・模型等
B-17 プラモデル・模型等

2012年6月28日木曜日

三菱 F-1(自衛隊支援戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-1)

F-1(エフワン/エフいち)は日本の航空自衛隊で使用された支援戦闘機、または戦闘爆撃機である。量産1号機の初飛行は1977年(昭和52年)で、同年より部隊配備を開始した。
後継機であるF-2の配備が進み、2006年(平成18)3月9日に全機が退役した。

三菱重工業が製造したT-2高等練習機を基に、第二次世界大戦終結後に日本が初めて独自開発した超音速飛行が可能な戦闘機である。愛称は特にない。
日本という四方を海に囲まれた島国の防衛のため、開発当初から対艦ミサイルとの組み合わせによる対艦攻撃を想定し、国産の空対艦ミサイル「ASM-1」の搭載能力を有していた。原型試作機である「FS-T2改(T-2特別仕様機)」が1975年6月3日、量産型1号機が1977年6月16日にそれぞれ初飛行を行った。
総計77機が製造され、三沢基地の第3航空団第3飛行隊と第8飛行隊、築城基地の第8航空団第6飛行隊に編成されている支援戦闘機部隊に配備がなされた。F-1の有する空対艦ミサイルによる対艦攻撃という運用方法は特筆すべきものがある一方で、機動性の低さから空中戦(要撃任務)での不安も抱えていた。
2006年(平成18年)に築城基地の第6飛行隊に配備されていたF-1がF-2の配備により退役し、航空自衛隊で配備・運用されていた全機が正式に退役した。

2012年6月27日水曜日

He100(ドイツ軍試作戦闘機)

情報元:Wikipedia(He100)

ハインケル He 100は、ドイツのハインケル社が1938年に初飛行させた、高速の単発単座レシプロ戦闘機。世界速度記録樹立時He 112U, He 113 という名称でプロパガンダとして公式発表したケースもあった。計19機が試作されたが、制式採用されずに終わった。大日本帝国海軍が本機を購入したことでも知られる。

メッサーシュミット Bf 109 との競争試作に破れた前作 He 112 の捲土重来を期し、ドイツ航空省からの正式な試作下命なきまま社内コード P.1035 の下で自主開発が進められた。
双子のギュンター兄弟 (Siegfried and Walter Günter) が設計を指揮し、製作順により当初 He 113 の名が与えられていたが、不吉な番号「13」の通り、完成間近の1937年にヴァルターが交通事故で早世したことで遺作になってしまい、He 100 に改称された試作1号機 (V1) は、翌1938年1月22日に初飛行した。
He 112 が Bf 109 より劣速で、上昇力でも運動性でも劣ったことへの反省から、軽量化と徹底的な生産合理化、高速化のための空力的洗練が図られた。抵抗を減ずるため集中冷却器を排し、主翼外板を表面冷却器とした結果[2][3]、同じダイムラー・ベンツ DB 601A を搭載する当時の新鋭機 Bf 109E より、80km/h優速を示した。
He 112 や Bf 109 で離着陸時の事故を多発させていた外側引込式主脚に対し、間隔が広く一般的な内側引込式に改められていたが、過剰な軽量化のため故障が頻発した。
また九七式戦闘機以降の一連の中島飛行機製単座戦闘機と同様に、主翼前縁後退角を0とする手法は本機以降ハ社でも常套化し、He 280, He 219, He 162 らに受け継がれている。内翼の上反角も0で、軽い逆ガル翼を構成している。
1938年6月5日、ドイツ空軍内では異例にハ社に好意的だったエルンスト・ウーデット大佐自ら操縦桿を執り、通常型1,175hpエンジンの試作3号機 (V3) で100km周回区間の世界速度記録634.32km/hを出すや、航空省はこれを He 100 ではなく He 112U (U はウーデットの頭文字)の成果として発表した。更に水・メタノール噴射装置付高過給仕様の改造 DB 601 (短時間出力1,750hp)に換装し、翼弦を短縮した増加試作8号機 (V8) は、ハ社テストパイロットのハンス・ディターレの操縦で1939年3月10日に高度50m以下1km区間746.606km/hの公認記録を樹立したが、空軍省はこれも実戦配備中の He 112U によるものとして対外宣伝した。
期待通りの高性能を発揮した He 100 の制式採用をハ社は確信したが、非ナチ党員でアドルフ・ヒトラーの専横を快く思わぬエルンスト・ハインケルに対し、航空省次官(後に元帥)エアハルト・ミルヒと昵懇の仲で、ナチ幹部でもあったウィリー・メッサーシュミットとは、政治力・影響力の差が歴然としており、戦闘機をメ社の専任とする事が空軍省の当時の方針とされていた。He 100の機体設計も、被弾率の高い主翼を表面冷却器に当てたことが脆弱性を高めることは自明であり、高い失速速度と高翼面荷重、発動機架まで廃止してエンジンをバルクヘッドに直付けするなど「凝り過ぎ」と評された生産・整備上の問題点も多く、実用性に対する懸念は当初から強く持たれており、前線で活躍中の Bf 109 の大量産を減じてまで He 100 を並行配備すべきとの積極的な支持が得られず(搭載するDB601エンジンの生産数が限られていたため、He100を生産すれば、同エンジンを搭載するBf109/Bf110の生産減となる)、それまでの努力は水泡に帰した。
更に、航空省と宣伝省はメ社に速度記録用の Me 209 (Bf 109R) を特製させて He 100 の記録を塗り替え、これを大々的に対外宣伝したのみならず、記録更新を目指したハ社に禁止命令を下した。
このMe209は実用戦闘機化が計画され、製作された4号機Me209V4はDB 601Aエンジンを搭載し、トラブルの多い表面冷却をやめ主翼下面に通常型のラジエーターを備え1939年に初飛行した。しかし、He100と違い元が速度一辺倒で設計された機体だけに実用機として使用するには問題が多く、肝心の速度性能も機体の改修や武装によって機体重量が増加したためBf109Eを下回るまでになった。そのため今後改善の見込みがないとされ、開発計画は中止となった。結果としてHe100はHe177の開発経緯と同様に様々な説が語られている

2012年6月26日火曜日

メッサーシュミットBf109(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミットBf109)

Bf 109 (Messerschmitt Bf 109) は、第二次世界大戦におけるナチスドイツ空軍の主力戦闘機。世界で初めて一撃離脱戦法を前提に開発されたとされ、機体重量に比し小さく薄い主翼を持ち、モーターカノンや主脚のエンジンマウントなど、特徴のある設計となっている。
1934年、バイエルン航空機製造(Die Bayerische Flugzeugwerke/BFW)で開発が開始され、翌1935年、生産開始。設計主任は、かつてBf 108を設計したロベルト・ルッサー技師。後にバイエルン航空機製造はメッサーシュミット社となった。

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2012年6月25日月曜日

九七式重爆撃機(大日本帝国陸軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(九七式重爆撃機)

九七式重爆撃機(きゅうななしきじゅうばくげきき)は、大日本帝国陸軍の重爆撃機。キ番号(試作名称)はキ21。略称・呼称は九七式重爆、九七重爆、九七重など 。連合軍のコードネームはSally(サリー)。開発・製造は三菱重工業。 1937年(昭和12年)に制式採用され、支那事変中後期、ノモンハン事件、太平洋戦争(大東亜戦争)初中期における帝国陸軍主力重爆として活躍した。

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2012年6月24日日曜日

震電(大日本帝国海軍試作局地戦闘機)

情報元:Wikipedia(震電)

震電(しんでん)は第二次世界大戦末期、日本海軍が開発していた単発単座の試作局地戦闘機である。機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した独特の機体形状は“前翼型(他にも先尾翼型、エンテ型などの呼称があるが本項では便宜上「前翼型」の表現に統一する)”と呼ばれるもので、B-29迎撃の切り札として期待されていた。1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に数度の試験飛行を行った所で終戦。実戦には間に合わなかった。機体略号はJ7W1。

当時、高度10,000mをおよそ570km/hで飛行するアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機に対して、同高度で十分な速力を発揮できる日本の迎撃戦闘機は少なかった。そこで震電は、B-29迎撃の切り札として、最大速度400ノット(約740km/h)以上を目標として開発された。
実戦での戦術としては、震電の快速を活かしB-29の前方に展開、高度12,000mから30mm機銃4門を斉射。更に速力差を活かし再びB-29の前方に進出、2度目の攻撃を行うという手法が計画されていた。

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2012年6月23日土曜日

フォッケウルフ Fw190(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(フォッケウルフ Fw190)

フォッケウルフ Fw190は、第二次世界大戦時のドイツ空軍の戦闘機。メッサーシュミットBf109とともに主力を担った

ナチス・ドイツ政権の大軍拡政策によって、ドイツ空軍は戦闘機の近代化を強力に推し進めた。ところが、主力戦闘機メッサーシュミットBf109は高性能ではあったものの、操縦が難しかったため着陸事故が急増していた。また搭載エンジンであるDB601は生産性に難があり供給数量に限界があった。その事故率の高さと生産性の問題に不安を感じたドイツ空軍上層部は、1938年になって、フォッケウルフ(フォッケ・ヴルフ)社に対し、バックアップ戦闘機の開発を依頼した。フォッケウルフ社ではこれを受けて、クルト・タンク技師を中心にわずか12人のチームで開発を進め、1939年6月1日に初飛行に成功した。
タンク技師は、第一次世界大戦に騎兵として出征、大学では第一志望の航空力学の講義が禁止されたため電気工学を専攻、在学中はグライダー研究会でグライダーの設計、製作、飛行までを行い、その後さらに、飛行機の操縦ライセンスまで取得するという異色の経歴を持っていた。
タンク技師はFw190開発に当たって、メッサーシュミットBf109のような「速いだけが取り柄のひ弱なサラブレッド」ではなく「騎兵の馬(ディーンストプフェーアト"Dienstpferd")」をコンセプトとして開発を進めた。完成したFw190は、空戦性能のみならず、パイロットには操縦しやすく、最前線でも容易に修理が可能、さらに大量生産しやすい構造という、まさに理想的な兵器であった。
フォッケウルフFw190は、当時使用可能だった唯一の1500馬力級空冷星形エンジンBMW 139を使って開発された。上述の通り、Bf109その他の機体に採用されて生産が手一杯だったDB601系エンジンとは別のエンジンを使用する様に、空軍当局が指示したからである。液冷王国ドイツにおける唯一の空冷エンジン単座戦闘機であり、量産型はのちにBMW社が開発に成功した、より高出力のBMW 801シリーズに換装された。Bf109がヨーロッパ最強を誇っていた緒戦ではあまり注目を浴びなかったが、スピットファイア Mk.V等、連合国の新型戦闘機に対抗する高性能機として1941年から実戦配備が始まった。しかしながら、空軍では能力不足を露呈しつつあったにも拘らずメッサーシュミットのBf109を主力として配備する方針であったため、Fw190は補助戦闘機という低い地位しか与えられなかった。それでも、最初の配備型Fw190Aは英国のスピットファイア Mk.Vを実戦で圧倒し、強力な新型戦闘機の登場という混乱を連合国に与えた。本機の活躍によりドーバー海峡上の制空権はドイツ空軍の手中に収められ、この状況は半年後のイギリス空軍のスピットファイアMk.IXの出現まで継続した。A型は高度6000m以上でBMW 801の出力が落ち、高高度性能が不足していたが中低高度では高性能を遺憾なく発揮し、その後も改良が続けられBf109と共にドイツ空軍を支えた。
Fw190は低高度での高性能に加えて、広く安定した車輪間隔や余裕ある設計や頑丈な機体という特長があったため、これを生かして戦闘機としてのA型のほかに戦闘爆撃機型のF、G型など多様な種類が作られた。爆撃任務を行うF・G型にはBf109の護衛がつく事があったが、 たとえ爆撃機型であってもFw190のほうが空戦性能に優れていたため、護衛する側にとっては馬鹿らしい任務だったそうである[1]。 また、大戦後半には本機の特徴であった空冷エンジンが性能的に限界となってきたため、また高高度性能を改善するため液冷エンジンに付け替えたふたつの改良型が設計された。その内A-7型から改修されたD-7型は、ユンカース社が開発した新しい液冷エンジンV12気筒ユモ 213 (en:Junkers Jumo 213) を搭載し、その改良型のD-9型が量産された。しかし、D-9型が配備され始めた1944年晩夏の頃にはすでにドイツ軍全体が燃料欠乏に悩まされており、さらにベテランの喪失によるパイロット全体の質の低下、さらに数的劣勢が加わってドイツ空軍にはD-9型を有効に駆使する能力は残っていなかった。D-9型は約700機が生産された。もうひとつはタンク技師の本命であり最終開発タイプとなったTa 152(1944年から機体名は設計者名に変更された)であったが、こちらは60機強の生産に過ぎず本格的な配備には到らなかった。Fw190シリーズは、最終的には20000機あまり(修理再生も含む)が生産された。
枢軸国各国及び一部の中立国や連合国でも多く使用されたBf109と違い、Fw190は主としてドイツ空軍で運用された。例外はハンガリー空軍とトルコ空軍で、枢軸国であった前者にはF型の部隊配備がなされ、中立国であった後者には枢軸国側への引き込みを目的に、He 111 Fなどと共にA型が提供された。また、日本は参考のためにA-5型をドイツより有償供与され、1943年に海軍の潜水艦で輸送された。この機は陸軍航空総監部で、技術的な分析ののち飛行テストがなされた。その結果はメーカーの技術者も参照でき、五式戦闘機のエンジン排気の空力処理などの参考にされた。また、日本陸軍が本機に行った有名なテストとして、鹵獲したP-51C、P-40E、及び疾風、飛燕との全力飛行テストが知られている。高度5000mで行われたこの競走では、加速に優れる本機はスタートで他機種を引き離すが3分後にはP-51Cに追い抜かれ、5分後にストップをかけた時点ではP-51Cの遥か彼方に、次いで本機と疾風が大体同じ位置に、少し後れて飛燕、さらに後方にP-40Eという結果であった。
第2次大戦後、Fw190の性能を調査したアメリカ軍は、「第2次世界大戦におけるドイツ最良の戦闘機」という評価を与えている。

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2012年6月22日金曜日

ミラージュF1 (フランス空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(ミラージュF1)

ミラージュF1(Mirage F1)はフランスのダッソー社製の戦闘機である。1970年代を代表する戦闘機の一つであり、多くの国で使用されている。ダッソー社が世に送り出した無尾翼デルタ翼機のミラージュ・シリーズにおいて唯一、通常の水平尾翼を備えている。

1960年代中頃からダッソー社が新世代機のホープと位置付けて自社資金で開発していた単発エンジンの戦闘機であり、ダッソー社製にしては珍しく無尾翼デルタ翼ではなく、通常の後退主翼と尾翼付きの形状となっている。無尾翼形式を採用しなかった理由は、STOL性能の向上のためである。前作ミラージュIIIは、無尾翼形式によりSTOL性に劣り、フランス海軍の艦上戦闘機として採用できないという問題を生じた。その結果、本機はミラージュIIIよりも大幅にSTOL性能を向上させたが、海軍での採用はなかった。

武装は、30mm機関砲2門を固定武装とし、空対空ミサイル4発を搭載可能。この他に、通常爆弾または空対艦ミサイルを搭載できる。なお、配備当初は空対空ミサイルが搭載できず、1976年までは武装は機銃のみであった。

試作初号機はシュペル・ミラージュの名称で1966年12月23日に初飛行し、1967年5月に飛行試験中に墜落して失われている。1973年よりミラージュF1Cとしてフランス空軍への配備が開始され、12月には最初の飛行隊が編成された。欧州各国への輸出は、アメリカのゼネラル・ダイナミクス社製F-16ファイティング・ファルコンの登場によってあまり振るわなかったものの、その他の国への輸出は好調であり、約500機が輸出された。

なお、その後のダッソー社は、最新技術により無尾翼デルタ翼形式をリファインしたミラージュ2000、カナード翼を付加したデルタ翼機であるラファールを開発している。そのためダッソー社のマッハ2級の実用機において通常の水平尾翼形式を採用した機体としては、本機が唯一の存在となり、前述の通り異端児と評されている。

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2012年6月21日木曜日

トーネード ADV(イギリス空軍防空戦闘機)

情報元:Wikipedia(トーネード ADV)

トーネード ADV (Tornado ADV) はトーネード IDSをベースにイギリスが開発した防空戦闘機である。
ADVとは防空型 (Air Defence Variant) の頭文字を意味し、防空戦闘機であることを指している。イギリス空軍 (RAF) では名称の後に戦闘機 (Fighter) のFを付けて戦闘機と分別していたため、戦闘機の呼称は使用していない。

2012年6月20日水曜日

F/A-18 ホーネット (ブルーエンジェルス)

情報元:Wikipedia(ブルーエンジェルス)

ブルーエンジェルス (Blue Angels)はアメリカ海軍所属のアクロバット飛行隊。現在の本拠地はフロリダ州のペンサコーラ海軍航空隊基地。通称「ブルーズ (Blues)」。

昔から、アメリカ空軍のアクロバット飛行チーム「サンダーバーズ」とライバル関係にあり、共に世界でも高レベルのアクロバット飛行能力を誇る。

情報元:Wikipedia(F/A-18 ホーネット)

F/A-18 は、アメリカ合衆国のマクドネル・ダグラス社が開発した戦闘攻撃機。アメリカの軍用機命名規則は記号の使用を禁じており、正式にはFA-18である。また採用国によっては防空任務が主な目的であることからF-18などと呼ばれることもある。

スズメバチを意味するホーネット (Hornet) が愛称で、現在は発展型であるF/A-18E/F スーパーホーネットと区別する意味でレガシー(旧来の)ホーネットと記載・呼称されることがある。

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2012年6月19日火曜日

F-107(アメリカ空軍試作戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-107)

F-107は、アメリカ合衆国のノースアメリカンが開発していたジェット戦闘爆撃機。F-100戦闘機の発展型である。F-105との競争試作に敗れたため採用はされず、試作機はテスト機として生涯を終えた。

F-100戦闘機により強力なエンジンを搭載した改良型の戦闘爆撃機として開発が開始されたものである。開発当初はF-100Bという名称であったが、間もなくF-107Aの名称が与えられた。アメリカ空軍からは1953年10月20日に3機の試作機の発注があり、1954年8月には追加で6機発注されている。
F-100の機体を改良するにあたって、機首にレーダーを搭載する必要があり、エンジンのインテイクをノーズから移す必要があった。ノースアメリカン社では、F-107Aの開発方針として、F-100のインテイクを機体下部に移したモデルNA-211と機体上部に移したモデルNA-212の二つを検討し、NA-212の案を採用した。インテイクの位置の他、F-107Aではエリアルールの採用、垂直尾翼の大型化・全浮動化などの改良が行われているが、主翼と水平尾翼はF-100と同等である。
インテイクが背中に設けられたのは、核爆弾を胴体に半埋め込み式に搭載するにあたり、インテイクの発する衝撃波が投下に影響を与えないようにするためであった。これにより、パイロットの脱出や後方視界に悪影響を及ぼす結果となった。しかし、本機が戦闘爆撃機であることと、当時幅を利かせていたミサイル万能論により、この欠点はあまり問題視されなかった。

2012年6月18日月曜日

Do217(ドイツ空軍双発爆撃機爆撃機)

情報元:Wikipedia(Do217)

Do217は、第二次世界大戦中にドイツ空軍で運用された双発爆撃機である。ドルニエ社で開発され、Do 17の後継機として開発されたためDo 17と外形的には似た部分も多いが、より近代化された機体であった。当初爆撃機として運用されたが、その後夜間戦闘機や偵察機としても使用され終戦まで活躍した。総生産機数は、1,905機である。ドルニエDo 215の拡大版であり、同じエンジンを搭載していたが詳細な部分は異なっていた。

最初の原型(Do217V1)は、1938年10月4日に初飛行したが、7日後に墜落事故を起こしてしまった。原因はエンジンのパワー不足によるものであり、Do217V1のエンジンは同時代の爆撃機に比べると明らかにパワーが不足していた。また、安定性も問題となっていたが、それは垂直尾翼の形状変更で解消された。

BMW 801エンジンを搭載してからパワー不足も解消され爆弾の搭載量も増大した。これによりDo 217はドイツ空軍爆撃機のなかで最大の爆弾搭載量を誇るようになった。

Do 217には急降下爆撃能力が求められていたために尾翼にダイブブレーキが装備される予定でいたが、初期型では十分な性能が得られずにDo 217E-2までダイブブレーキ機能は省略されていた。ダイブブレーキを装備した後期型でも、ブレーキの使用によって胴体後部に無理な負荷がかかったためブレーキを取り外した機体もあった。

Do217はハインケル He111やJu88よりはるかに大きい爆弾搭載量を持ち、最高速度でも優れていた。ハインケルHe177が完成するまではドイツ最大の爆撃機だった。

Do217は1943年9月、対艦誘導爆弾フリッツXで、イタリアの降伏後に連合軍側に移った戦艦ローマを撃沈した。Do217は1944年中頃まで使用されていた。

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2012年6月17日日曜日

零式艦上戦闘機五二型(大日本帝国海軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(零式艦上戦闘機)

零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は第二次世界大戦期における大日本帝国海軍(以下、海軍と表記する)の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん、れいせん。“ゼロ戦”とも)の略称で知られている(以下、零戦と表記する)。海軍の艦上戦闘機(以下、艦戦と表記する)としては実質的に最終型式で、日中戦争の半ばから太平洋戦争の終戦まで前線で運用された。

零戦は、大戦初期において、その長大な航続距離、重武装、優れた格闘性能により、連合国の戦闘機に対し圧倒的な勝利を収めた。このため、零戦は当時の連合国パイロットから「ゼロファイター」の名で恐れられた。しかし後継機の開発の遅れにより前線で運用され続けた結果、大戦中期以降には、大量投入された連合国側新鋭機に対する零戦の機体としての優位は失われ、日本側の熟練搭乗員の損失や物資の不足などの面からも零戦の戦闘力は劣勢に追い込まれた。大戦末期には、他の多くの日本機と同様、特別攻撃機としても使用された。

零戦の開発元は三菱重工業(以下「三菱」という)である。生産は、三菱のみならず中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。零戦は、アメリカ陸軍のP-51マスタング、ドイツ空軍のメッサーシュミット Bf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として知られている。

情報元:Wikipedia(零式艦上戦闘機の派生型)

五二型は二二型の発展型で、折り畳み機構を廃して翼幅を三二型と同じ11mに短縮したものの、二一型や二二型のように円形に整形された翼端を持つ主翼と、エンジン排気による空気の整流・推力増強を狙い排気管を分割して機首部の外形に沿って配置する推力式単排気管が外見上の特徴である。なお五二型は三二型と同一エンジン装備で正規全備重量で200kg近く増加しているにも関わらず、最高速度は約20km/h、上昇力も向上しており、推力式単排気管の効果を垣間見ることができる。ただし極初期生産型には推力式単排気管が間に合わず、二二型同様の集合排気管を装備している。単排気管装備後に排気管からの高熱の排気がタイヤや機体外板を痛めることが判明したため、最下部の排気管を切り詰め、残りの排気管口付近に耐熱板を貼り付けるといった対策が施されている。なお、後期生産型では無線機が新型の三式空一号に換装された他、翼内燃料タンクに自動消火装置を装備して防御力を高めている。

五二型は三菱では1943年8月から生産が行われ、以下の甲・乙・丙型を含めて終戦までに約6,000機が生産され、零戦の最多量産型になった。レイテ沖海戦以降、特攻機としても使用された。

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2012年6月16日土曜日

A-10 サンダーボルトⅡ(アメリカ空軍対地攻撃機)

情報元:Wikipedia(A-10 サンダーボルトⅡ)

A-10はフェアチャイルド・リパブリック社の開発した単座、双発、直線翼を持つアメリカ空軍初の近接航空支援(CAS)専用機。戦車、装甲車その他の地上目標の攻撃と若干の航空阻止により地上軍を支援する任務を担う。
公式な愛称は第二次世界大戦中に対地攻撃で活躍したリパブリック P-47に由来するサンダーボルトII(Thunderbolt II)だが、一般にはウォートホッグ(イボイノシシ)やホッグという渾名で広く知られている。
二次任務の前線航空管制機として地上攻撃機の誘導に当たる機体はOA-10と呼称される。

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2012年6月15日金曜日

ヘンシェル Hs129(ドイツ空軍双発地上攻撃機)

情報元:Wikipedia(ヘンシェル Hs129)

ヘンシェル Hs129は、第二次世界大戦中にドイツ空軍で運用された双発地上攻撃機である。

1937年頃にドイツ空軍省は「堅固な防御装甲を施した20mm機関砲装備の小型双発攻撃機」の競争試作を各航空機生産会社に提示した。これに対しハンブルガー、フォッケウルフ、ゴータ、ヘンシェルの4社が応募し、設計審査を行った。その結果フォッケウルフとヘンシェルの設計案でそれぞれ試作を行うこととなった。

試作原型機は1939年頃それぞれ完成、比較審査が行われた。フォッケウルフのFw189Cは、傑作偵察機「空飛ぶ目」といわれたFw189に装甲を施した機体で双発双胴だった。それに対しヘンシェルのHs129は最初からこの計画のために設計された機体だった。

Fw189Cは原型機がタイプ別にコクピットセクション周りを変更できるように設計されておりコクピット周りに装甲を施した2人載り用の物に載せ替えられた他、20mm砲2門、7.92mm機銃4丁、後方銃座に7.92mm機銃を搭載するなど様々な改造が施され原型機よりも生産性が低下し、価格も高価なものとなったがエンジンは原型機と変わらずアルグスAs.410A-1であり、重量増加に見合う出力は得られていなかった。

Hs129もエンジンは同様であったが装甲装備による重量増加をある程度考慮した機体設計がなされていた。両機の差は明らかで偵察機改造のバリエーション機と専用設計の機体とでは勝負にならず、第2教導航空団での審査の結果Hs129が採用され、Hs129A-0として12機が発注された。しかし空軍省はその性能にかならずしも満足できなかったとも伝えられている。

本機の胴体は装甲装備による重量増加防止のため三角形の断面としていたが、機体上方の横幅が狭く全体的に小型化していたため極端に狭いコクピットとなり、ほとんど座席スペースのみという状況で一部エンジン関係計器はエンジンナセルに装備され、射撃照準器でさえキャノピー外に装備し、さらに操縦桿の動きまでもが制限されていた。分厚い防弾ガラスで構成されたキャノピーは満足な前方視界さえ得られなかったという。固定武装は、このコックピットを挟むように側面に7.92mm×2、20mm×2が装備された。最初の量産型とされた本機はアルグスAs.410A-1(465馬力)×2機を搭載していたが、総重量5トンにも及ぶ機体に相応の性能を持たせるには無理があり、運動性が鈍く操縦性は劣悪で熟練した操縦士でさえ乗りこなすことが難しかった。

1940年秋頃に数機が第2教導航空団麾下の部隊に配備され、実用試験が行われたが問題が多く特にエンジンの出力不足による運動性の悪さが指摘され、空軍省はHs129A-0の量産移行を断念することを決定した。しかし、すでに第二次世界大戦が勃発しており地上襲撃用機の部隊も編成され、専用の装備機体が早急に求められる状況となっていた。ヘンシェル社としては設計を改めた新型機の試作を提案したが、その時間的余裕を空軍省は許さず、現設計を改良することを命じられた。

一番の問題点は運動性であったが、これは高出力エンジンの搭載によりある程度解決可能であることは解ってはいたものの、当時すでに高出力のエンジンは戦闘機や通常爆撃機に回されていたため、Hs129が装備できるような量産型の高出力エンジンの供給が国内では難しい状況であった。

しかし占領したフランスで、ノーム・ローン14M空冷14気筒エンジン(700馬力)の転用に目処が付き、このフランス製エンジンを搭載した機体をHs129Bとして再設計することとなった。エンジンナセル周りやコクピットの形状変更や改善、電動トリムタブの採用などの改修を加えた結果、かなりの性能向上が確認された。もっとも、それでもまだ鈍重な機体であることに代わりはなかったが空軍省としては量産することを決定した。

Hs129は航空機としては重装甲の対地攻撃専用機として設計をスタートしているため、この種の機体として有名なソ連の地上攻撃機 Il-2 「シュトゥルモヴィーク」と比較されることもあるが、ドイツ軍としては装甲車輌攻撃専用というかなり絞り込んだ用途を想定していた機体であり、それより汎用性のあるIl-2とは多少性格が異なる。本機は重武装、重装甲の機体で実戦でも戦果を挙げたが、フランス製エンジンの信頼性が低く重量に見合った出力ではなかったため、運動性の問題が最後までつきまとうこととなった。

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2012年6月14日木曜日

F-86セイバー(アメリカ空軍・海軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-86セイバー)

F-86はアメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発したジェット戦闘機。愛称はセイバー(Sabre)である。

生産国のアメリカ空軍をはじめ、多くの西側諸国で採用された亜音速ジェット戦闘機である。第1世代ジェット戦闘機に分類される。初飛行は1947年10月。
武装は当初機関砲のみであったが、後にミサイル(サイドワインダー)が開発されるとその有効性を実証し(ミサイル万能論)、派生型も含めて9,860機が製造された。アメリカ空軍が1950年代初頭より主力戦闘機として最も重きを置いて配備を急いだ傑作機であったが、朝鮮戦争後にその戦訓を取り入れたセンチュリーシリーズを始めとする新鋭機が短期間で開発されると、急速に陳腐化していった。だが、結果としてアメリカ国内で余剰となったF-86は日本を含めた同盟国や友好国に、大量に供与されることになる。
1980年にポルトガル空軍機の退役、1993年2月にボリビア空軍機の退役[1]により、全機が退役した。現在では個人所有機が民間機として使用されている。

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2012年6月13日水曜日

Su-27(ソ連・ロシア軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(Su-27)

Su-27(スホーイ27、スホイ27;ロシア語:Су-27スー・ドヴァーッツァチ・スィェーミ)は、ソビエト連邦で設計・製造された戦闘機である。現在でもロシアを中心とする旧ソ連諸国や第三世界で使用され、極めて強力な格闘性能、長大な航続距離を有する。
ロシアでは、非公式な愛称として「鶴」の指小形である「ジュラーヴリク」(Журавлик) を用いている。
Su-27は「フランカー」(英語:Flanker:ラグビーやアメリカンフットボールのポジションの一つ)という名称でも呼ばれるが、これは北大西洋条約機構 (NATO) のつけたNATOコードネームである。ただし、近年ではロシアでも対外的にこの名称を用いている場合がある。

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2012年6月12日火曜日

紫電改(日本(大日本帝国)海軍局地戦闘機)


情報元:Wikipedia(紫電改)

「紫電改」(しでんかい)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した戦闘機である。この名称は紫電の各型のうち、二一型以降の機体を呼ぶものである。
局地戦闘機紫電は、もともと水上戦闘機「強風」を元に開発された戦闘機であり、紫電二一型はこれを低翼に再設計した機体であった。また「紫電改」の名称は、試作名称の仮称一号局地戦闘機改が一般化したもので、本機の制式名称は紫電二一型である。出自が迎撃戦に使われるべき局地戦闘機でありながらも、1943年以後、急速に進む零式艦上戦闘機の陳腐化、その正統後継機の烈風の開発遅延への対応策の一環で、戦争末期における日本海軍の事実上の制空戦闘機としての零戦の後継機として運用され、1944年以降の日本海軍においての唯一敵に正面から対抗可能な制空戦闘機として太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。 同時期に開発された同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」が保守的な設計だったのと対照的に、紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ、層流翼)が特徴である。 本機に対する後世の評価は大きく分かれているが、その数奇な運命やネーミングから人気の高い機体である。米軍を中心とした連合軍側のコードネームは"George"。紫電改は正面から見ると低翼であることがわかるため、紫電一一型とは別機と認識されていた。さらに戦時中には情報不足から、疾風や零戦などの他機種と誤認して報告されていた。戦後になってから紫電がGeorge11、紫電改がGeorge21と分類され、呼ばれている。 日本海軍の搭乗員からは紫電が「J」、紫電改が「J改」と呼ばれたが、当時から「紫電」・「紫電改」と呼称していたという証言もある。343空の戦時日記には「紫電改」「紫電二一型」の記述もあり、実際には統一されていなかった。

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2012年6月11日月曜日

Yak-28 ブリュワー(ソ連空軍戦闘機)


情報元:Wikipedia(Yak-28 ブリュワー)

Yak-28(Jak-28;ヤク28)は、ソ連のヤコヴレフ設計局で開発された超音速戦術または防空戦闘機である。北大西洋条約機構(NATO)は、識別のため戦術戦闘機型に「ブリュワー」、防空戦闘機型に「ファイアバー」というNATOコードネームをつけた。複座の戦闘練習機型の存在もしられており、コードネームは「マエストロ」である。
肩翼配置の主翼の両側に強力なツマンスキー製ジェットエンジンを収めたポットを装備した双発機で、降着装置はタンデム型に配置されていた。1960年頃から生産が開始され約700機生産されたが、他のソ連の友好国には輸出されなかったため、西側諸国においては本機は長い間その実態が把握されていなかった。

2012年6月10日日曜日

ユンカース Ju87(ドイツ空軍急降下爆撃機)

情報元:Wikipedia(ユンカース Ju87)

ユンカース Ju87 シュトゥーカ(Junkers Ju 87)は、ドイツにおいて第二次世界大戦中に使用された急降下爆撃機である。愛称の「シュトゥーカ」(Stuka)とは、急降下爆撃機を意味する「Sturzkampfflugzeug」(シュトゥルツカンプフルークツォイク)の略で、本機が急降下爆撃機の代表として扱われたため、この名が用いられるようになった。日本語では「スツーカ」とも表記されている。
第二次世界大戦以前の1935年春に初飛行を行っているにもかかわらず、後継機に恵まれなかったこともあって大幅なバージョンアップも無く終戦まで使用され続けた機体である。

逆ガル主翼の複座機で固定脚が外見上の大きな特徴で、急降下爆撃機らしいガッシリとした武骨なフォルムをもつ。急降下爆撃の機動に耐えるため機体構造が頑丈で、整備も容易であったため反復攻撃をこなす事ができる実用性に富む機体であった。逆ガル式の翼が生み出す下方視界の良さと、安定した急降下性能のため、精密な爆撃を行うことが出来、急降下時にサイレンのような音を立てることから連合国側からは「悪魔のサイレン」の異名で恐れられた。後に機体に小型プロペラにより駆動されるサイレンを取り付け、標的となった陣地等の敵兵を恐慌へと追いやり地上部隊の進撃を爆撃と心理面で援護することになる。しかし、大戦も後期になると逆に航空優勢な連合軍に対してサイレンの効果が薄れたためサイレンを取り外し、台座だけが残っている記録写真もある。
頑丈、すなわち重い機体構造という急降下爆撃機の特性ゆえの弱点があり、低速、鈍重で防弾設備が貧弱だったため、空戦能力は低く制空権を確保した状態での攻撃にしか適さなかった。また燃料搭載量にも機体の重さのしわ寄せがいき、航続距離が短く行動半径が狭かった。
開戦当初のJu87は大きな戦果を上げたのだが、ドイツ空軍上層部は能力を過信し、「急降下爆撃こそが至上の爆撃である」と誤った認識をもった者も多かった。特に、ドイツ空軍最高司令長官ヘルマン・ゲーリングの“急降下爆撃熱”はひどかったと言われている。そのため、戦略爆撃機He 177を含めた水平爆撃を任務とする機体の多くに急降下爆撃能力を求めたり、戦略爆撃機、後継機の開発を怠るなど開発に悪影響を与えた。また、その認識の甘さはバトル・オブ・ブリテンでの大損害を生む原因ともなった。
1942年頃から陸上では単発爆撃機は活躍の場を失いつつあり、ドイツ空軍でもFw190FやGなどの対地襲撃機・戦闘爆撃機型が登場しているが、旧式化したJu87もダイブブレーキを外し、襲撃機として生産され続けていた。

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ドルニエDo335(ドイツ空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(Do335)

Do 335プファイルは、第二次世界大戦中、ドイツのドルニエ社により製造された戦闘爆撃機である。
2基のエンジンをコクピットを挟んで前後に配置する、双発串型という特殊なエンジンレイアウトを採用している。垂直尾翼は上下に1枚ずつあって、下の物にはダンパー付きのスキッドが装着され接地対策がされていた。その特殊なレイアウトゆえに「プファイル」(Pfeil=矢)の愛称を与えられ、また一部では「アマイゼンベア」(Ameisenbär=オオアリクイ)とも呼ばれた。
レシプロエンジン機としては最速の部類に入る最高速度770km/h[1]を誇る。脱出時にはパイロットが後部プロペラに巻き込まれる事故を防ぐため、垂直尾翼と後部プロペラを爆砕し圧縮空気式の射出座席でパイロットを脱出させる。なお前後いずれかのエンジン停止時でも飛行は可能。試験飛行の記録によれば、速度・加速・旋回の性能が高く、双発機にしては信じられないほど運動性が良かったと伝えられている。

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2012年6月9日土曜日

F-117 ナイトホーク(アメリカ空軍攻撃機)


情報元:Wikipedia(F-117 ナイトホーク)

世界初の実用的なステルス機として1981年に初飛行を行った、アメリカ空軍の攻撃機である。レーダーから発見されにくくするため、平面で構成された独特の多面体の機体形状をしている。これにより空気力学的に不安定な形状となっているが、操縦にコンピュータを介在させることによって安定性を確保した(このため操縦系統は必然的にフライ・バイ・ワイヤとなった)。1982年に部隊配備が始まり、1988年11月にアメリカ国防総省が発表した不鮮明な写真によって初めて公に存在が示される。

主に夜間作戦に使用され機体表面の塗装も真っ黒なことから、愛称は「ナイトホーク」(アメリカヨタカ)と名付けられた。また、初の本格的なステルス機である事と特徴的なデザインから、現在でもステルスといえばこの機を連想する者が少なくない。

1983年に実戦配備がスタートし、1990年までに全59機の配備が完了した。しかしその運用・維持コストの高さから2008年4月22日をもって全機が退役した。攻撃機として主に重要施設への空爆を任務としており、湾岸戦争をはじめいくつかの実戦で使用された。撃墜されたのはコソボ紛争における1機のみである。

1機当たりの価格は約4500万ドル(2006年上半期)。技術流出を防ぐ為、輸出は一切行われなかった。

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2012年6月8日金曜日

XP-55(アメリカ陸軍試作戦闘機)


情報元:Wikipedia(XP-55)

カーチスXP-55はカーチス社がアメリカ陸軍用に試作した戦闘機である。愛称はアセンダー (ASCENDER) 。機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した先尾翼機だったが、安定性不良等の問題から開発中止となった。


1939年にアメリカ陸軍は、レシプロ機の限界を打ち破るべく周回計画 (Circular Proposal) R40Cという単発の迎撃機の仕様を航空メーカー各社に提示した。そして、バルティーXP-54、ノースロップXP-56と共に、カーチス社の設計案に対して試作発注がなされることとなった。カーチス社の設計案では、主翼は後退翼で着陸装置はカーチス社の軍用機としては初の3車輪式の先尾翼機で、エンジンは開発中だったP&W X-1800(2,200 hp)を搭載することになっていた。しかし、陸軍は余程カーチス社に信頼がおけなかったのか、地上試験用モデルと風洞テスト用モデルの製作発注のみを行い、試作機の発注はその結果次第で行うという対応をとった。その結果、カーチス社はまず実物大の飛行テスト機(社内名称 CW-24B)を自費製作し1941年12月からテストを行った。そして、その年の7月にようやくXP-55として試作機3機の発注を陸軍から受けることができた。 試作1号機の初飛行は1943年7月19日に行われたが、その時点から安定性不良が指摘された。また、搭載予定していたX-1800エンジンが開発中止となってしまったため、約1,000 hpも出力が落ちるアリソンV-1710エンジンを搭載したが、このエンジンでは明らかにパワー不足であった。試作1号機は1943年11月に失速試験を行っている際に墜落して失われた。翌年に、全幅や小翼の形状を変更し操縦性の改善を図った2号機、3号機が完成した。しかし、劣悪な操縦性や低速時の安定性不良は改善されず、最高速度も当時の制式戦闘機を下回る628 km/hしか出なかった。結局、性能不良ということで、本機の開発計画は中止になってしまった。

2012年6月6日水曜日

F-80 シューティングスター(アメリカ空軍戦闘機)


情報元:Wikipedia(F-80 シューティングスター)

F-80は、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空軍が採用したロッキード社製のターボジェット戦闘機。愛称はシューティングスター(Shooting Star、流星の意)。陸軍航空隊時代はP-80であったが、1948年に空軍が分離発足したため、F-80に改称された。近代ジェット戦闘機の基本型を確立したことで高く評価され、また戦後派生した複座型練習機T-33は、各国で半世紀以上に亙り使用された。

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