2012年8月31日金曜日

SBD ドーントレス(アメリカ陸・海軍急降下爆撃機)

情報元:Wikipedia(SBD ドーントレス)

SBDは、ダグラス社が第二次世界大戦前に開発した、アメリカ海軍の艦上偵察爆撃機(艦上爆撃機)。名前のSBは偵察爆撃機(Scout Bomber)を意味し、Dはダグラス社を意味する。
第二次世界大戦の殊勲機として、急降下爆撃機や偵察機として第二次世界大戦のほぼ全期間において運用された。アメリカ海軍だけでなく陸軍や海兵隊でも運用された他、少数がイギリス海軍に供与されている。 第二次世界大戦の太平洋戦線においては、緒戦期のアメリカ海軍の苦しい時期、ミッドウェー海戦を契機とする戦局の逆転、そして勝利への階段を一気に駆け上り始めるまでを見届けた歴史の立会者であった。

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2012年8月30日木曜日

F4U コルセア(アメリカ海軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F4U コルセア)

F4U コルセア (F4U Corsair) は、アメリカのチャンス・ヴォートが開発し、第二次世界大戦と朝鮮戦争でアメリカ海軍と海兵隊が使用したレシプロ単発単座戦闘機である。 ヴォート社の他にグッドイヤー社とブリュースター社でも生産され、グッドイヤー社製の機体はFG、ブリュースター社製の機体はF3Aという制式名称が与えられた。また、AUという呼称がある攻撃機型も存在する

ブリュースター F2A バッファロー艦上戦闘機などの後継として航空機メーカーのチャンス・ヴォートが1938年2月に開発を開始した。Corsair:コルセアとは海賊の意。逆ガル翼が特徴的な機体である。
1938年2月にアメリカ海軍が、戦闘機の開発要求を出し、チャンス・ヴォートは4月に1,200馬力級エンジンを搭載するV-166A案と2,000馬力級エンジン搭載のV-166B案を提出した。当時、戦闘機用エンジンの主流は1,000馬力以下であったが、6月11日にV-166B案がXF4U-1として、海軍より試作発注がなされた。当時としては大きさも怪物級であり、海軍で一番大きなプロペラをつけた、海軍一重たい艦上戦闘機となった。
初飛行は1940年5月29日である。試作機XF4U-1は一度墜落事故を起こしているものの、時速650kmを記録するなど、性能は良好であった。量産型F4U-1の初飛行は1942年6月25日である。機体は完成したものの、F4F ワイルドキャットの後継機としての座はF6F ヘルキャットに譲っている。失速挙動が危険・前方視界が不十分・プロペラブレードが長く下手をすると着艦(着陸)時に甲板(地上)にプロペラを打ち破損する可能性がある、といったものがその原因であり、すでに艦上での実績と戦果もあるF4Fの設計改良版であるF6Fのほうが信頼性に優れるため、ということだったようである。このことから一部の意見では「航空母艦に搭載される為の機体設計をしなかった欠陥機」との意見もある。

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2012年8月29日水曜日

ハインケル He 162(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(ハインケル He 162)

ハインケル He 162(Heinkel He 162)は第二次世界大戦末期にナチス・ドイツのハインケル社で開発・製造された単発単座ジェット戦闘機。 愛称は「フォルクスイェーガー(Volksjäger)」。ドイツ語で「国民戦闘機」を意味し、これはドイツ航空省(RLM)により同機に付けられた制式名称である。この名称は一般市民による製造と搭乗をも想定した戦闘機開発計画から同機が生まれたことにちなむ(同様の用語に国民突撃隊がある)。また、同機は開発計画の中では「ザラマンダー(Salamander、火トカゲ(サラマンダー)の意)」のコードネームで呼ばれ、さらにハインケルからは「シュパッツ(Spatz、スズメの意)」とも呼ばれた。 初期のジェット戦闘機の中では最も速く飛ぶことができ、戦局の悪化からアルミニウム不足をきたしたため、機体を合板で代用できる部分は代用したこと、外見的には単発ジェットエンジンを背負式に装着していることが主な特徴である。

2012年8月28日火曜日

Il-28(ソビエト連邦空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(Il-28)

Il-28(イリューシン28;ロシア語:Ил-28イール・ドヴァーッツァチ・ヴォースィェミ)は、ソ連の航空機設計機関であるイリューシン設計局が開発した中型のジェット爆撃機である。DoDが割り当てたコードネームはIl-28がType 27、Il-28UがType 30。北大西洋条約機構 (NATO) の用いたNATOコードネームでは、「ビーグル」("Beagle")と呼ばれた

Il-28の原型機が初飛行したのは1948年7月8日である。1949年にソ連空軍に引き渡された。機体の特徴として、大きなエンジンが主翼に直接埋め込まれた双発レシプロ機のような形状をしていることである。パイロットは胴体上面に張り出したキャノピー部のコックピットに操縦士が搭乗し、航法士と爆撃手は機首部にある風防部分に搭乗していた。このレイアウトは第二次世界大戦中の中型爆撃機と類似していたが、そのほかには様々な技術が導入されていた。
尾翼は35度の後退翼を取り入れている。エンジンは、初期量産型ではイギリス製ロールス・ロイス ニーンのソ連生産版であるクリーモフ RD-45を、後の量産型ではRD-45の改良型であるクリーモフ VK-1を装備した。 爆撃兵装は胴体内の爆弾倉に搭載し、標準爆弾搭載量は1000 kgから3000 kgである。
Il-28は世界の多くの国に輸出されていた。ソ連側諸国が結成していたワルシャワ条約機構の加盟国のほか、アフリカ諸国にも輸出されており、中国においてもH-5としてライセンス生産された。
1965年11月11日に中国人民解放軍所属のIl-28のパイロットが台湾に亡命飛行し、乗員1名は追撃機による攻撃で死亡したが、乗員2名は台湾に到着した。かれら2人にたいして台湾当局は「反共義士」として表彰し、2名に金塊35kgずつを与えたという。
ソ連では1960年までに3000機程で生産を終了したが、中国では最近まで生産を続けていた。現在では中国でも退役し、北朝鮮で少数が戦術爆撃機として現役である。
またアルバニア空軍でも使用されていたが退役し、西側にも広く公開されて有名であったルーマニア空軍のH-5も、偵察型・複座型を含め全機が退役している。

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2012年8月27日月曜日

ユーロファイター タイフーン(イギリス、イタリア、スペイン、ドイツ共同開発戦闘機)

情報元:Wikipedia(ユーロファイター タイフーン)

ユーロファイター タイフーン (Eurofighter Typhoon)は、NATO加盟国のうちイギリス、イタリア、スペイン、ドイツ(計画開始当時西ドイツ)の4ヶ国が共同開発した戦闘機で、デルタ翼とコクピット前方にカナード(先尾翼)を備え、カナードデルタ (canard-delta)と呼ばれる形式の機体構成をもつマルチロール機。

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2012年8月26日日曜日

フィアット CR.42(イタリア空軍複葉戦闘機)

情報元:Wikipedia(フィアット CR.42)

フィアット CR.42(FIAT CR.42)は第二次世界大戦最後のイタリアの複葉戦闘機である。名称のCRは設計者チェレスティーノ・ロザテッリが手掛けた戦闘機(Caccia Rosatelli)であることを示し、愛称は“ファルコ(Falco=鷹の意)”。

CR.42は、それ以前にイタリア空軍で使用されていた複葉戦闘機CR.32の発展型で、直接には1936年に作られた試作機CR41を原型として計画され、順調に製作推移し1939年初飛行を行った。胴体は溶接鋼管骨組みに羽布張り、主翼は下翼のやや小さい複葉で、ロザテッリ設計による一連の戦闘機同様、W字型の特徴ある支柱形式を持ち、固定脚だった。原型1号機は複葉固定脚にもかかわらず尾輪が引込み式という「理解に苦しむ構造であった」(航空評論家・関川栄一郎/談・1965年・航空情報8月臨時増刊号)。運動性能は良好で、空戦能力は高く評価されていた。ハンガリーやベルギー、スウェーデン等近隣国より発注を受けた。ダイムラー・ベンツDB 601Aエンジンを搭載したCR42B(1機試作)は、複葉機でありながら最大速度520km/hを記録し世界最速の複葉機であった。1940年には数回にわたり英国本土空襲を敢行した。大戦末期には時代遅れはいかんともし難く、アフリカ戦線等で戦闘爆撃機として運用された。休戦直前に反ファシスト側に着いた機体もあった。戦後複座練習機に改造され、最後の機体は1950年まで現役を保った。

2012年8月25日土曜日

四式戦闘機 疾風( 大日本帝国陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(四式戦闘機 疾風)

四式戦闘機(よんしきせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ84。愛称は疾風(はやて)。呼称・略称は四式戦、四戦、ハチヨン、大東亜決戦機など。連合軍のコードネームはFrank(フランク)。開発・製造は中島飛行機。

九七式戦闘機(キ27)、一式戦闘機「隼」(キ43)、二式単座戦闘機「鍾馗」(キ44)と続いた、小山悌技師を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、全体的に保守的な設計ながらよくまとまっており、速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性・生産性のバランスが取れた傑作機であった。624km/hという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速であった(キ84-I乙試作機が試験飛行の際に660km/hを記録したとされ、アメリカ軍のテストでは680km/h代後半を記録している)。四式重爆撃機「飛龍」(キ67)と共に重点生産機に指定され、総生産機数は基準孔方式の採用など量産にも配慮した設計から、1944年(昭和19年)中頃という太平洋戦争(大東亜戦争)後期登場の機体ながらも、日本軍戦闘機としては零戦、一式戦に次ぐ約3,500機に及んだ。
帝国陸軍から早くから「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として大いに期待され、大戦後期の主力戦闘機として多数機が各飛行戦隊といった第一級線の実戦部隊に配属され参戦し、対戦したアメリカ軍からも「The best Japanese fighter(日本最優秀戦闘機、日本最良戦闘機)」と評価された名機だが、搭載した新型エンジン・ハ45(海軍名・誉)の不調や、潤滑油・ガソリン(オクタン価)の品質低下、点火プラグ・電気コードといった部品の不良・不足、整備力の低下などにより全体的に稼働率が低く、また、スペック通りの最高性能を出すのが難しかったため、大戦後半に登場した陸海軍機の多くと同様、評価の分かれる機体である。

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2012年8月24日金曜日

XB-15(アメリカ陸軍試作爆撃機)

情報元:Wikipedia(XB-15)

XB-15とはボーイング社がアメリカ陸軍航空隊向けに開発していた大型爆撃機。5000マイル(約8000Km)飛行可能な長距離戦略爆撃機の実用化を検討するためのものであり、当初はXBLR-1(LRはlong rangeの略)と呼称されていた。開発開始は1934年。さまざまな試験がこの機体で行われた。またボーイング社内のコードネームはモデル294である。試作機1機のみ製造。

XB-15は実験的な機体であり、さまざまな試験が行われたが、当初の目標である5000マイルの飛行は、技術的な問題のため数日に分けて実施された。また他にもさまざまな試験が行われ、搭乗員が休憩を取れるように寝台などコンパートメントが装備されており、主翼も分厚かったため、内部通路より飛行中にエンジンの整備・修理も可能であった。 しかし機体が大きいにもかかわらず大馬力のエンジンが実用化されていなかったため、当初目標としていた速度を達成できず、結局は制式採用されず量産もなされなかった。そのため残された機体は輸送機となり、XC-105と改称された。しかしながら、この機体によって自動操縦システムや、翼の除氷装置、そして補助動力システムなどが実用化されており、それらはB-17をはじめ、これ以後に開発されたアメリカの航空機に装備されるようになった。

2012年8月23日木曜日

F-106 デルタダート(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-106 デルタダート)

F-106はF-102の性能向上版としてコンベア社が開発しアメリカ空軍ADC(防空軍団)で使用された戦闘機(要撃機)。愛称はデルタダート (Delta Dart)、シックス等。初飛行は1956年。俗にセンチュリーシリーズとよばれるもののひとつである。

アメリカ合衆国本土をソ連の爆撃機の編隊から防衛するための新時代の防空システムを実現するため、アメリカ空軍は高度に自動化された自動防空戦闘機の開発に着手し、まず電子機器メーカー18社に対して戦闘機用の電子管制システム (ECS) の開発提案を提示し、提出された提案書の中からヒューズ・エアクラフト社のMX1179システムを選定した。これと並行して空軍は、航空機メーカー19社に対して地上自動防空管制システムに組み込まれて運用される迎撃機の開発要求を提示した。これに対して6社から9通りの開発提案が寄せられ、1950年10月にコンベア社のYF-102案が採用された。
YF-102は最初から量産機を生産する「クック・クレイギー計画」に基づいてF-102 デルタダガーとして制式化されるが、開発段階でトラブルが発生して計画が大幅に遅れ、さらには所期の要求性能が得られないこともはっきりしたため、アメリカ空軍は目標とする完全自動防空戦闘機開発に目処がつくまでの繋ぎとしてF-102Aを生産することにし、その上でF-102Aをベースに改良発展させたF-102Bを開発しようと考えた。このF-102Bは最初からMX1179システムを採用することが決定しており、要求性能もF-102Aとは違っていたため、1956年6月にF-106Aと改称された。新たな要求性能は最大速度マッハ2以上、上昇限度2万1300m以上、戦闘行動半径378nm以上という厳しいものだった。
F-106A量産初号機は1956年12月初めにコンベア社のサンディエゴ工場でロールアウトし、同年12月26日にエドワーズ空軍基地で初飛行した。量産2号機も1957年2月26日にサンディエゴのリンドバーグ飛行場で初飛行し、この2機による飛行試験が行われた。飛行試験では、要求されていた性能には達せず、最大速度はマッハ1.9、しかもマッハ1を越えてからマッハ1.7まで加速するのに4分30秒以上もかかることが判明し、さらに上昇限度は目標値に遠く及ばず精々1万7370mがやっとという、とても防空戦闘機としては期待出来ない結果だった。この問題はエンジンが必要とする空気流入量が設計値よりも大き過ぎたためで、エア・インテークのデザインを変えることで大きく改善された。それ以外には機体に大きな問題がなかったため、初期量産型と本格的な量産型の間の差異も少なく、理想的な「クック・クレイギー計画」の成功例となった。ただし、自動兵装管制装置 (AWCS) のMX1179の実用化が遅れ、1958年にMA-1として完成するが、アメリカ空軍は当初予定していた40個飛行隊に1000機以上のF-106Aを配備する計画を断念した。それとともに当時、アメリカ空軍がF-106Aと並行開発していたF-101B ブードゥーによって代替できるのではないかという議論が持ち上がった。しかし、アメリカ空軍防空軍団はF-106AとF-101Bはそれぞれ特徴が異なり、互いに補完し合うものであるとの理論武装を固めF-106のキャンセルを防いだ。だが、こうした議論の中でF-106の調達機数は大きく削減され、最終的にF-106Aが277機とF-106Bが63機となった。

2012年8月22日水曜日

MiG-17(ソビエト連邦空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(MiG-17)

MiG-17(ミグ17;ロシア語:МиГ-17ミーク・スィムナーッツァチ)は、ソビエト連邦のミコヤーン・グリェーヴィチ設計局で開発されたジェット戦闘機。DoDが割り当てたコードネームはType 38(Type 20とする説もある)。北大西洋条約機構(NATO)の使用するNATOコードネームはフレスコ (Fresco)。

MiG-17は、朝鮮戦争で実戦には投入されたものの飛行機として未成熟だったMiG-15を改良した完成型である。当初MiG-15bis-45°として開発されたことからわかるように、MiG-15において35度であった主翼の後退角を45度に改め(厳密には前縁途中で角度が変わっている)、主翼上の境界層板の数も片側2枚から3枚へと変更した。
基本型のMiG-17及びMiG-17Fの武装は機関砲のみで、MiG-15bisと同じく37 mm機関砲N-37 1門と23mm機関砲NR-23 2門であった。その後、ロケット弾を搭載するよう改修された機体もあった。朝鮮戦争には間に合わなかったものの、東側諸国をはじめ多くの国に配備され、1990年代まで数多くの実戦に参加した。
特にベトナム戦争での活動は有名で、何度かアメリカ軍の航空機を撃墜した。またポーランドや中華人民共和国(殲撃五型、またはJ-5、F-5とも)でも製造された。現在も朝鮮民主主義人民共和国など一部の発展途上国では現役であると考えられている。
なお、MiG-17とMiG-15は見た目で専門家にもしばしば取り違えられているが、機首以外の形状は両者とも著しく異なっており、特に主翼の平面形からの区別は容易である。

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2012年8月21日火曜日

三菱 J2M 雷電(大日本帝国海軍局地戦闘機)

情報元:Wikipedia(三菱 J2M 雷電)

雷電(らいでん)は、大日本帝国海軍が開発し、太平洋戦争後半に実戦投入した局地戦闘機/乙戦。機体略号はJ2M1~7。アメリカ軍を中心とする連合国側のコードネームは「Jack」。 局地戦闘機(以下「局戦」と略)とは、航空母艦から運用される艦上戦闘機とは異なり、陸上基地からの運用を前提とした戦闘機を、また乙戦とは対爆撃機戦闘・迎撃戦闘(インタ-・セプタ-)を行う戦闘機を指す日本海軍独自の用語である。「雷電」という名称は愛称ではなく制式名称であり、乙戦の場合は「雷」または「電」の字を含むことと定められていた。

大型爆撃機迎撃を主任務の一つとする局戦に要求される性能は、敵爆撃機が飛行している高度に短時間で到達する上昇力と敵爆撃機に追い付く速力、そして一瞬のチャンスに敵爆撃機へ致命傷を与え得る火力の三つである。これらを重視して開発されたのが雷電である

日本の搭乗員には評判が悪かったが、戦中戦後に実際にテスト飛行したアメリカ軍のパイロットには好評であった。これはずんぐりした胴体によって、日本機にしてはコックピットが広く、乗り心地が良かったからと言われ、日本では問題視された振動や着陸性能の悪さも、アメリカの基準ではさして問題とされなかった。
なお、フィリピンでアメリカ軍に接収された二一型初期生産機(製造番号3008号機)である捕獲機ナンバー”S12”を用いたテストでは、最高速度671km/h(高度5,060m)、上昇力5分10秒/高度6,100mと日本側のカタログ・データを大幅に上回る結果を残している(試験環境における燃料は、92オクタンの燃料に水メタノール噴射を組み合わせたものである。試験時の重量は、7,320lb(3,315kg)であり、これは180kgほど軽い。旧日本海軍でいう「軽荷重量」のデータである。増槽を装備した重量8,130lb(3,682kg)のOverload状態でも、385mph弱(383mphとして616km/h)と海軍航空本部の公称速度を上回る数値を出している)。

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2012年8月20日月曜日

ペトリャコフ Pe-8+他(ソ連戦略爆撃機)

情報元:Wikipedia(ペトリャコフ Pe-8)

ペトリャコフ Pe-8(ロシア語: Петляков Пе-8)は、第二次世界大戦中に戦闘に参加したソ連の唯一の戦略爆撃機である。

ソ連空軍は4発爆撃機としてTB-3を配備していたが、波板外板という旧式設計であり性能の陳腐化は著しかった。1934年には、ツポレフ設計局にTB-3の後継となり、高度8,000mで最高速度に達することができる高速の新型長距離爆撃機TB-7(ANT-42)の設計が指示された。ツポレフ設計局ではウラジミール・ペトリャコフを主任設計技師に設計を始め、1936年12月に試作機を完成させた。同年12月27日の初飛行も成功裏に終わり、主任設計技師の名を冠してPe-8と改称されたが、当時ソ連で最大馬力を発揮する航空エンジンであったミクーリンM105(1,100馬力)をもってしても、試作機の飛行性能は低く、空軍の期待を裏切るものであった。そこで、主機をミクーリン AM-34に換装し、エンジンへの過給機として、M-100を1基胴体に搭載するといった改良が試みられた。1939年になると、強力なAM-35A(1,350馬力)が実用段階に入り、このエンジンに再換装した状態で飛行試験が再開された。機体はなおも馬力不足であったが、性能向上が見られ要求性能は満たしたため、同年生産が始まった。

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2012年8月19日日曜日

ブリストル ブレニム(イギリス空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(ブリストル ブレニム)

ブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)は、第二次世界大戦初期のイギリス空軍で使用されたブリストル社製双発軽爆撃機である。

ブレニムの原型機は高速旅客機として開発されたブリストル142で、1935年に初飛行した。この機体は、全金属製、単葉、引込脚という近代的な構造の上、当時のイギリスのどの戦闘機よりも高速であった。イギリス空軍は、ブリストル142をベースにした爆撃機の開発をブリストル社に指示し、試作機無しにブレニム Mk. Iとして採用した。最初の量産機が部隊に配備されたのは、1936年末である。
第二次世界大戦開戦時には、イギリス空軍の主力軽爆撃機として、主に地中海、アフリカ方面に配備されていた。大戦時には戦闘機に対する速度的な優位さはなく、また防御武装が貧弱であったため損害が増大したが、軽快な運動性を生かして後継機であるダグラス ボストンやデ・ハビランド モスキートが配備されるまで、各戦線で活躍した。また、爆撃機としてだけでなく重戦闘機、夜間戦闘機、偵察哨戒機としても使用された。
生産機数は約5500機で、この中にはカナダでライセンス生産されたボーリングブローク Mk. I(Bolingbroke)676機も含まれている。また、フィンランド、ユーゴスラビア、トルコ等にも輸出された。

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2012年8月18日土曜日

F-105 サンダーチーフ(アメリカ空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(F-105 サンダーチーフ)

F-105 サンダーチーフ (F-105 Thunderchief:雷の王、雷神の意) はアメリカのリパブリック社が開発した軍用機である。

単座単発(F/G型は複座)の戦闘爆撃機で、同社のF-84の後継機である。初めて機体内に爆弾倉をもった戦闘爆撃機であり、その爆撃能力は軽爆撃機というジャンルを不要にし「FとBを付け間違えた」とさえいわれた。しかし、決して戦闘機としての本質を失った訳ではなく、ベトナム戦争では主に爆撃を行いながらも、北ベトナム軍機を 27.5機撃墜している。今でいうマルチロール機の先駆けであるとも言える。 ニックネームの“サンダーチーフ”は同社の戦闘機に与えられて来た“サンダー**(Thunder-)”の伝統に則ったものであるが、それ以外にも多彩な愛称が現場や関係者から非公式に与えられた。
主機として用いられた、当時屈指の戦闘機用大出力ターボジェットエンジンであるP&W J75にちなんでThud、Thunderthud(いずれも、“雷が轟音を立てて落ちる”の意)、大量の爆弾を投下することから“地面を掘り返すもの”としてHyper-Hog、Ultra-Hog(共に“凄い豚(猪)”の意)、同様に高い爆撃能力からSquash Bomber(握りつぶす(ように爆撃する)爆撃機)、機体の平面形状からIron Butterfly(鉄の蝶)、センチュリーシリーズの戦闘機の5番目(F-10“5”)であることから5セント硬貨の材質にかけてThe Nickel(前述の通り5セント硬貨、転じて、小銭[1]を意味する)、戦闘、爆撃、核攻撃をこなす多用途性からOne-Man Air Force(一人(で全部やってしまう)空軍)、Triple Threat(3つの脅威)、頑丈な機体[2]を作ったメーカーに敬意を表したRepublic Iron(リパブリック社製鉄鋼製品、もしくは“リパブリック鉄工所”の意)などが知られている

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2012年8月17日金曜日

ウェストランド ホワールウィンド(イギリス空軍双発戦闘機)

情報元:Wikipedia(ウェストランド ホワールウィンド)

ウェストランド ホワールウィンド (またはワールウィンド、実際の発音はこちらに近い。Westland Whirlwind)は第二次世界大戦で、イギリス空軍が使用した双発戦闘機である。

ホワールウィンドはイギリス空軍最初の双発単座戦闘機で、またウエストランド・エアクラフト社にとっても初めてイギリス空軍に採用された戦闘機でもあった。試作機の発注は1937年に出され、1号機は1938年10月に初飛行し、1939年1月には量産発注が行われた。しかし生産の遅れのため実機の部隊配備は1940年6月になってからだった。初期に引き渡された機体の内の1機は、夜間戦闘機としての実用テストを受けた。形状的には、双発機としてはかなり小型で(ハリケーンより50センチ長いだけ)胴体もかなり細身にまとめられ、鉛筆のように見えた。水冷でありながらラジエーターを機外に突出させず、胴体と両エンジンの間の中央翼内に取り込んで空気抵抗を抑えている。エンジンも小型かつ軽量のロールスロイス・ペリグリンエンジンを選定した。
しかし、この選定こそ本機のウィークポイントとなった。このエンジンは故障が多く、その整備のため部隊は大きな労力を割かれ機体の稼働率も低かった。また、着陸速度が速かったため使用できる飛行場が限られるなど、運用面で問題点が多い機体だった。加えて高高度性能に劣るため、イギリス空軍は迎撃戦闘機として本機は不適であると評価した。このため、バトル・オブ・ブリテンには本機は参加していない。
そこで、比較的長い航続距離と重武装を生かして長距離護衛戦闘機/戦闘爆撃機として使用することになり、1941年にはブレニム軽爆撃機の護衛任務を行ったりした。1942年からは、イギリス本土からドイツ占領地への爆撃任務に就いている。しかし、エンジンの不調が解消されぬまま、1942年2月に112機(及び原型機2機、生産済みのエンジン分の機体数)をもって本機の生産は終了し、1943年にはホーカー タイフーンに更新されて本機は前線から退いた。

2012年8月16日木曜日

四式重爆撃機 飛龍(大日本帝国陸軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(四式重爆撃機 飛龍)

四式重爆撃機(よんしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の重爆撃機。キ番号はキ67。愛称は飛龍(ひりゅう)。呼称・略称は四式重爆、ロクナナなど。連合軍のコードネームはPeggy(ペギー)。開発・製造は三菱重工業。

陸軍が最後に開発し太平洋戦争(大東亜戦争)の実戦に投入した双発重爆撃機であり、日本航空機開発技術の集大成と呼ぶに相応しい傑作機であった。試作1号機は1942年12月27日に飛行している。

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2012年8月15日水曜日

J-20(中国人民解放軍空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(J-20)

J-20は中国航空工業集団公司が中国人民解放軍空軍のために試作中の、第5世代双発型ステルス機の名称。 中国語では殲-20(歼-20、ピンイン:Jiān-20)または殲撃20型と呼び、欧米メディアではChengdu J-20とも表記される。「殲撃」の発音は「チエンチー」に近い。Chengdu(成都)はテスト飛行場を所有する成都飛機工業公司または所在地の四川省成都が由来。J-20という名称はメディア報道によるもので正式名称はまだ不明である。1号機と見られる機体の機首に書かれた2001をJ-20の01号機とする解釈には一応の合理性があるが、中国当局は公式に肯定も否定もしていない。開発時のコードネームを「鯤鵬」(こんぽう=伝説上の巨鳥)とする報道もある。
正式な愛称ではないが、J-20を含むJ-XXとして開発された機体のいくつかは、中国の軍事マニアからは「絲帯(絲帶 / 丝带、リボンの意)」と呼ばれている。これは第5世代機の中国での呼び方である四代機(四代机)の「四代」と「絲帯」の発音が類似すること(四代はsìdài、絲帯はsīdài)と、これらの機体の胴体が薄く平らな印象を与えることに由来している。

J-20は1990年代にコードネームJ-XXとして開発されたステルス機の1つで、第5世代とされる。#2001および#2002と呼ばれる2つのプロトタイプが2010年末までに製作された。成都市の成都飛機工業公司テスト飛行場敷地内で飛行を伴わない地上走行が確認されたとされ、またその容姿は2010年年末に非公式の軍事関連のウェブサイトにJ-20のものと思われる画像が掲載されたことで明らかになった。2011年1月11日に初飛行に成功したと公表された。
中国空軍首脳は2009年時点において、中国初のステルス戦闘機がまもなくテスト飛行の段階に入ると述べており、その8~10年後に配備されるであろうとしていた。
1999年にコソボ紛争で撃墜されたF-117の残骸から得られたステルスの技術情報を転用した可能性があるとする報道もある。
2012年3月11日付英サンデー・タイムズ紙によると、中国のハッカーがBAEシステムズのコンピューターに侵入し、1年半に渡ってF-35に関する情報を盗んでいたと報じた。

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2012年8月14日火曜日

XB-42 ミックスマスター(アメリカ陸軍試作爆撃機)(スライド画像)

情報元:Wikipedia(XB-42 ミックスマスター)

XB-42 ミックスマスター(Douglas XB-42 Mixmaster)とは、アメリカ合衆国で第二次世界大戦中にダグラス・エアクラフト(以下ダグラス)によって開発が進められていた試作爆撃機である。空気抵抗を最小限にする為に主翼を改良し、推進式を導入してプロペラを機体後部に配置するなど、従来にない様々な革新的な試みを盛り込んでいた。しかし戦後新たなパワーソース(推進力)としてジェットエンジンが登場したため、制式採用されることはなく試作のみで終わった。なおXB-42を純ジェット化したXB-43も開発が進められたが、こちらも制式採用されなかった。

B-42計画とは、レシプロ機としては高速を出せる機体を生み出すためのものであった。当時の航空機のパワーソースはレシプロ動力(ピストンエンジン)が殆どであったが、すでに新技術であるジェットエンジンも実用化されつつあった。実際にドイツではジェットエンジン搭載の爆撃機の開発が進められてはいたが、当時のジェットエンジンは重量と比較して推進力が弱く、かつ燃料消費量も莫大であり航続距離も極端に短かった。そのため、ダグラスはレシプロ機の次期爆撃機の開発に着手するが、この計画コンセプト自体アメリカ陸軍航空軍(現在のアメリカ空軍)と連携を取って進められたものではなく、当初は実用化される見込みは全くなかった。しかし当時進められていた重爆撃機B-29の開発が失敗した際の保険(後継機という位置付け)として軍から開発が承認され予算を獲得した。
開発された機体は、当時のレシプロ動力飛行機としては優れた高速性能を発揮したが、ジェットエンジンとの混合動力機となったり、さらには純ジェット機XB-43に改造されたが、一連の開発計画が日の目をみることはなかった。またこのB-42計画で導入された革新的試みは、現在の航空機からすれば異質なものであり主流となるものは無かったが、いずれも技術的努力が垣間見られるものであった。

2012年8月13日月曜日

F-4 ファントムII(ブルーエンジェルス)

情報元:Wikipedia(ブルーエンジェルス)

ブルーエンジェルス (Blue Angels)はアメリカ海軍所属のアクロバット飛行隊。現在の本拠地はフロリダ州のペンサコーラ海軍航空隊基地。通称「ブルーズ (Blues)」。

昔から、アメリカ空軍のアクロバット飛行チーム「サンダーバーズ」とライバル関係にあり、共に世界でも高レベルのアクロバット飛行能力を誇る。

情報元:Wikipedia(F-4 ファントムII)

F-4はアメリカ合衆国のマクドネル社が開発した艦上戦闘機である。アメリカ海軍をはじめ、多くの国の軍隊で採用された。愛称はファントム II (Phantom II) 、また本機に乗務するパイロットを「ファントムライダー」と呼称することもある。

アメリカ海軍初の全天候型双発艦上戦闘機として開発され、大型の翼と高出力のジェットエンジンを双発で装備し大きな搭載量を特徴としている。当初の機種番号は海軍では F4H 、アメリカ空軍ではF-110 だったが1962年にアメリカ軍の軍用機の命名規則統一によりF-4となった。
ベトナム戦争での活躍から多くの西側諸国に採用され、各国の要求に応じて様々な派生型が数多く作られたことより冷戦期の代表的な機体となった。数々の実戦戦績や各国へのセールスの成功も含めて傑作戦闘機と評価され、マクドネル社の発展の原動力としてその名を世界に広めた戦闘機とされる。
マクドネル社とダグラス社の合併によりマクドネル・ダグラス社となってからも生産が続き、総計5,195機の生産数となった。超音速戦闘機の歴史で5,000機以上製造されたのは、このF-4とMiG-19、MiG-21、MiG-23の4機種しかない。うち3機種は東側のソビエト連邦製であり、西側ではF-4が唯一例となる。現在のベストセラーF-16が2012年現在で4,500機程度の生産数であることを見ても特筆すべき生産数であるといえる。
初飛行から50年以上経過して開発国のアメリカでは全機退役しているが、現在でも多くの機体が現役のまま2010年以降も運用され続ける見通しである

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2012年8月10日金曜日

F-16 ファイティング・ファルコン(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-16 ファイティング・ファルコン)

F-16はアメリカ合衆国のジェネラル・ダイナミクス社が開発した第4世代ジェット戦闘機である。愛称はファイティング・ファルコン(Fighting Falcon)。 ジェネラル・ダイナミクス社軍用機部門のロッキード社への売却と、ロッキードのマーティン・マリエッタ併合によるロッキード・マーティンへの改称により、現在はロッキード・マーティン社の製品となっている。

バージニア州フォールズチャーチに本社を置くジェネラル・ダイナミクス社が開発した軽量戦闘機。当初は昼間軽量戦闘機として開発されたが、後に全天候対空/対地攻撃能力を付与された。正式な初飛行は1974年2月2日。胴体と翼を一体で成形するブレンデッドウィングボディの採用、フライ・バイ・ワイヤを搭載するなど、当時の革新的技術を取り入れている。その後も段階的な改良が続けられたことにより、登場から30年以上経った現在においても最新鋭戦闘機に遅れを取らない能力を維持し続けている。
アメリカ空軍では高価なF-15と安価な本機での「ハイ・ロー・ミックス」運用が行われており、保有作戦機の過半数を占めている。
4,500機以上製造され、世界20ヵ国以上の空軍が採用した実績からベストセラー戦闘機と評されており、アメリカ製のジェット戦闘機としては約9,000機のF-86、約5,700機のP-80、約5,000機のF-4に次ぐ第4位の生産数を誇る。現在も採用する国が増え続けているため、輸出向けの生産は現在でも続いており、2012年4月3日にはモロッコ空軍向けのF-16C Block 52アドバンスドが4,500機目の納入機として完成した。また、本機をベースとした戦闘機や練習機が複数開発されている(後述)。
後継機としてF-35を開発中で、アメリカ空軍では2020年代までの運用を予定している。2012年現在では、1020機を保有している。

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2012年8月9日木曜日

Pe-2(ソ連空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(Pe-2)

ペトリャコーフPe-2はV・M・ペトリャコーフが設計したソビエト連邦の爆撃機。

TsAGIに1921年から所属していたV・M・ペトリャコーフは金属製主翼の設計を担当した後、1936年からは大型爆撃機の開発を中心とするZOK実験組織の所長に就任。新コンセプトの爆撃機の開発を進めていたが、1937年に投獄される。いわゆる、スターリンの大粛清で逮捕された彼は、第156航空機工場(GAZ-156)のCCB-29特別刑務所に投獄。獄中で、KB-100と呼称される設計局を組織し、VI-100(VIは高高度戦闘機の略称)を開発するように命じられる。これこそが、Pe-2の礎となった機体であった。

金属製主翼の設計を担当していただけあって、V・M・ペトリャコーフの応力外皮構造の設計は複雑ではあったが、優秀であった。双発の水冷式エンジンは綺麗にカバー内に収められて、ソ連流である主翼内に冷却水ラジエターを設ける構造だった。 さらに、このラジエターの冷却空気は主翼前縁からダクトを通って、主翼上面のシャッターの隙間から排出され、出力を増す事を意図していた。エンジンには過給機、可変プロペラを装備した。機内装置の全ては電気化され、これはアメリカの影響を受けたものだといわれている。
1939年、VI-100の試作機の一号機が初飛行を記録。高度10,000mで時速630kmを記録する。しかし、三座型の爆撃機仕様を量産に移すように命令が下る。理由は定かでないが、これは仮想敵国の中に高高度爆撃機を持ち合わせている国が無く、高高度戦闘機の開発が必要ないと判断されたためだといわれている。三座型の爆撃機型、PB-100は1940年に認可され、試作機が製造された。VI-100との違いはダイブブレーキ(急降下速度を減速させる)の追加、機体構造や主翼の形状変更など、多岐にわたる。過給機も取り外されてしまった。これが実戦に送り出され、1941年から始まった量産型は設計者であるV・M・ペトリャコーフを敬してPe-2と改称された。

2012年8月8日水曜日

F-104 スターファイター

情報元:Wikipedia(F-104 スターファイター)

F-104 は、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機。愛称はスターファイター (Starfighter)。

F-100 スーパーセイバーに始まるセンチュリーシリーズの一員とされ、また、第2世代ジェット戦闘機に分類される、アメリカ合衆国初のマッハ2級のジェット戦闘機。初飛行は1954年2月。
細い胴体に短い矩形の主翼を持つ小型軽量の機体にゼネラル・エレクトリック社の強力なJ79型エンジンを一基搭載している。その卓越した高速性と形態はミサイル(当然無人である)を彷彿させ「最後の有人戦闘機」とも称された。
アメリカ空軍では短い期間の運用に終わったが、冷戦下において日本やイタリア、台湾や西ドイツなど世界15ヵ国で供与・運用された。ベトナム戦争のほか、第二・第三次印パ戦争等の実戦に投入された。 高度な操縦・整備技術を要し、高価であった事もあり、発展途上国への供与はF-5A/Bへ譲られたが、ライセンス生産を含め2,578機が生産された。初飛行後から半世紀を経た2004年、イタリア空軍に所属したF-104S退役を最後に全機退役となった。

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2012年8月7日火曜日

ドルニエ Do 217(ドイツ空軍爆撃機・夜間戦闘機)

情報元:Wikipedia(Do 217)

Do217は、第二次世界大戦中にドイツ空軍で運用された双発爆撃機である。ドルニエ社で開発され、Do 17の後継機として開発されたためDo 17と外形的には似た部分も多いが、より近代化された機体であった。当初爆撃機として運用されたが、その後夜間戦闘機や偵察機としても使用され終戦まで活躍した。総生産機数は、1,905機である。ドルニエDo 215の拡大版であり、同じエンジンを搭載していたが詳細な部分は異なっていた。

最初の原型(Do217V1)は、1938年10月4日に初飛行したが、7日後に墜落事故を起こしてしまった。原因はエンジンのパワー不足によるものであり、Do217V1のエンジンは同時代の爆撃機に比べると明らかにパワーが不足していた。また、安定性も問題となっていたが、それは垂直尾翼の形状変更で解消された。
BMW 801エンジンを搭載してからパワー不足も解消され爆弾の搭載量も増大した。これによりDo 217はドイツ空軍爆撃機のなかで最大の爆弾搭載量を誇るようになった。
Do 217には急降下爆撃能力が求められていたために尾翼にダイブブレーキが装備される予定でいたが、初期型では十分な性能が得られずにDo 217E-2までダイブブレーキ機能は省略されていた。ダイブブレーキを装備した後期型でも、ブレーキの使用によって胴体後部に無理な負荷がかかったためブレーキを取り外した機体もあった。 Do217はハインケル He111やJu88よりはるかに大きい爆弾搭載量を持ち、最高速度でも優れていた。ハインケルHe177が完成するまではドイツ最大の爆撃機だった。
Do217は1943年9月、対艦誘導爆弾フリッツXで、イタリアの降伏後に連合軍側に移った戦艦ローマを撃沈した。Do217は1944年中頃まで使用されていた。

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2012年8月6日月曜日

三式戦闘機 飛燕(大日本帝国陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(三式戦闘機 「飛燕」)

三式戦闘機(さんしきせんとうき)は第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ61。愛称は飛燕(ひえん)。呼称・略称は三式戦、ロクイチなど。連合軍におけるコードネームはTony(トニー)。開発・製造は川崎航空機。設計主務者は土井武夫。

太平洋戦争(大東亜戦争)に実戦投入された日本軍戦闘機の中では唯一の液冷エンジン(水冷エンジン)機として、当時の同盟国であったドイツのダイムラー・ベンツ DB 601(Bf 109Eが搭載)のライセンス生産品であるハ40を搭載した。空冷エンジンが主力であった日本軍機の中では特に突出したスリムなデザインであり、その搭載エンジンから「和製メッサー」とも呼ばれたが、エンジンとのちに本機が装備するMG 151/20機関砲(マウザー砲)以外はBf 109とは全くの別設計であり、独自の機体設計はもちろん、左右一体型の主翼と胴体の接合法、ラジエーター配置、主脚構造などが大きく異なり、むしろ内部構造的には共通点が少ない。
1941年(昭和16年)12月に初飛行したキ61試作機は、最高速度は591km/hを記録、総合評価で優秀と判定されただちに制式採用が決定した。しかし、先行して試作され不採用となったキ60でもそうであったように、複雑かつ高性能な液冷エンジンに対する日本の整備員の不慣れから整備は難しいものであった。これは同じくDB 601のライセンス生産品であるアツタを採用していた海軍の彗星でもそうであったが、ハ40系のエンジンは量産開始後に陸軍からニッケルを使用資材から外す決定が下されたため部品強度がさらに落ちてしまった(排気タービン用にニッケルを確保するための措置)。そのため本機の制式化にはなお紆余曲折が予想された。

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2012年8月4日土曜日

マクダネルXF-85ゴブリン(アメリカ陸・空軍試作戦闘機)

情報元:Wikipedia(XF-85)

マクダネルXF-85ゴブリン(McDonnell XF-85 Goblin) は、アメリカ合衆国のマグドネル社が開発していた試作戦闘機である。戦略爆撃機コンベアB-36を護衛するために、B-36の爆弾倉内に収納されて、戦闘空域まで運搬されるパラサイト・ファイターとして構想された。性能および運用に問題があり実用化はなされなかった。

従来、爆撃機の護衛を行う戦闘機は航続距離が短いことが問題であった。B-36は長距離爆撃機であったため、目的地上空まで随伴できる戦闘機は存在しておらず、B-36の爆弾倉内に戦闘機を収納することで、戦闘空域まで戦闘機を輸送する方法が考えられ、開発された。戦闘時には母機から発進し敵機を迎撃して、戦闘終了後に母機に帰還する。
1942年頃から構想が存在したが、本格的な開発は1945年9月以降である。1946年6月に実物大模型が完成している。1947年2月2日にXP-85として2機の試作機が発注された。
機体は、B-36爆弾倉に収容される。機首にジェットエンジンのインテイクを持ち、ノズルは胴体末尾にある。全長は4.52mしかなく、樽状の胴体を有している。後退翼の主翼を装備しており、後退角は34度。実物大模型ではX字型の4枚尾翼であったが、試作機では5枚に尾翼が増やされた。この後、風洞試験の結果から最終的に6枚となった。また、飛行試験の結果から主翼端に方向安定板が追加された。
1号機は1947年10月に完成したが、当初はエンジンを装備せず、主に風洞試験に用いられた。2号機は1948年7月からボーイングEB-29Bを親機として、飛行試験に用いられた。8月23日に初の自由飛行に成功したが、親機への帰還に失敗し、ミューロック乾湖に不時着している。10月14日に2度目の自由飛行を行い、母機への帰還に成功した。この後、1号機も飛行試験に用いられたが、やはり母機への帰還に失敗し不時着している。 飛行試験の結果を受け、母機との再収容が容易でないこと、小型で特異な形状のため飛行性能が悪く、敵戦闘機に対して充分に対抗できないことにより、1949年に計画は撤回された。代替として、リパブリックF-84戦闘機を爆撃機の翼端に取付ける「トムトム計画」が遂行されたが、これも空中給油で、通常の護衛戦闘機の航続距離が伸びたことなどにより中止となった。
製造された2機は、現在、オハイオ州デイトンのアメリカ空軍博物館、ネブラスカ州オマハの戦略空軍博物館に展示されている。

2012年8月3日金曜日

ブラックバーン バッカニア(イギリス海・空軍艦上攻撃機)

情報元:Wikipedia(ブラックバーン バッカニア)

ブラックバーン バッカニア (Blackburn Buccaneer) とはイギリスのブラックバーン・エアクラフト社が開発し、イギリス海軍及びイギリス空軍によって使用された複座艦上攻撃機である。メーカーは書籍によってはホーカー・シドレーやBAeになっていることがある。また、名についても日本語表記はブキャナーとされる場合がある。敵のレーダー網をくぐり抜けるために低空を高速で飛行し、敏捷な運動性と高い機体強度を兼ね備えた全天候能力を有するが、音速に達する事が出来ない遷音速機であった。

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2012年8月2日木曜日

MiG-35(ロシア空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(MiG-35)

MiG-35 (ミグ35;ロシア語:МиГ-35ミーク・トリーッツァチ・ピャーチ) は、ロシアのRSK「MiG」によって開発された、マルチロール機である。北大西洋条約機構 (NATO)の使用するNATOコードネームはファルクラムF (Fulcrum-F) 。非公式名称であるがスーパーファルクラム (Super Fulcrum) の愛称が用いられることもある。

原型はMiG-29で、エンジンとアビオニクスの近代化、主翼の拡大などの改良がされた。また、単座型のほか、複座型のMiG-35Dも開発されている。 ロシアでは当機を第4++世代ジェット戦闘機に定義しており、老朽化の進むMiG-29を置き換え、また将来的にはPAK FAやSu-27を補佐する事になる。AESAレーダーを搭載する他、オプションとして推力偏向ノズルの採用も可能。その為、機動力では世界トップクラスを誇る。また、アメリカ合衆国のF-22等のように、エンジンのアフターバーナーなしでの超音速巡航「スーパークルーズ」も可能であるとされる。 対空戦闘能力、対地攻撃能力の両方の能力を保持する、いわゆるマルチロール機である。空母艦載機として同系機のMiG-29K «9.41»を採用しており、多数の老朽化したMiG-21の代替機を要求しているインドなどの国に対して、代替機として提案が行われている。 なお、最初に製造された機体は旧来機MiG-29の改修機であるMiG-29OVTで、主翼の寸法が従来の小型のもののままである。MiG-29OVTは2005年以降、ヨーロッパなどの航空ショーなどに多数出品されている。

2012年8月1日水曜日

アブロ リンカーン(イギリス空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(アブロ リンカーン)

アブロ リンカーン (Avro Lincoln) は、第二次世界大戦末期にイギリスのアブロ社で開発された重爆撃機である。ランカスターの後継機として開発されたレシプロ4発機。 リンカーンの設計は、ランカスターと同じくロイ・チャドウィックによって行われた。2段過給器付きのマーリン 85 エンジン4基を搭載した。主翼を延長、アスペクト比を高めた。より大型の機体で、爆弾搭載量や航続距離が増大した。試作機は1944年6月9日に初飛行したが、第二次世界大戦には間に合わず、部隊配備は1945年9月からとなった。その後は、イギリス空軍の主力重爆撃機となり、29個飛行隊が装備した。1950年代、ケニアのマウマウ団の乱やマレーシアのマラヤ共産党に対する軍事作戦に参加した。しかし、1950年代末には、3Vボマーやキャンベラなどのジェット爆撃機との交代が進められ、1963年に全機退役した。生産機数は604機。