2012年7月31日火曜日

フォッケウルフ Ta 152(ドイツ空軍高高度戦闘機)(スライド動画)

情報元:Wikipedia(フォッケウルフ Ta 152)

Ta 152は、第二次世界大戦末期にドイツの航空機メーカー フォッケウルフによって製造された高高度戦闘機。同社の戦闘機 Fw 190D-9を発展させたものである。
フォッケウルフ製の航空機でありながら機種コードが Fw でないのは、1943年10月、ドイツ航空省 (RLM) が「新たな戦闘機には主任設計者の名称を含める」と定めたことによる。その結果、主任設計者クルト・タンクの名字 (Tank) から Ta となった。(同様な例として、エリック・バッヘム博士のBa等がある。)

高度6,000メートル以上で急激に性能が低下するFw190Aを液冷エンジン化することで高高度に対応したFw 190 D-9 タイプ(ドーラ9)は戦闘機として一応の成功を収めたものの、搭載するエンジンは本来高高度用ではなく、真の意味での高高度戦闘機と呼べるものではなかった。そこで、フォッケウルフの設計者クルト・タンクは高高度での戦闘能力向上をはじめとした能力全般の向上を図った機体の開発に取り組んだ。その結果誕生したのがTa 152である。この機は高度 12,500 m で 760 km/h の最高速度を目標とし、「究極のレシプロ戦闘機」として、大きな期待がかけられた。
本機の特徴は、空冷エンジン装備のFw-190Aに水冷エンジンを換装したFw-190 D-9をベースにさらに高高度飛行に対応したもので、D-9との主な違いは、高高度用エンジンへの換装、与圧コックピット、主翼の大アスペクトレシオ化、さらに、武装強化策として、Fw-190シリーズでは初のプロペラ軸内機銃の装備などである。
これらの追加装備によって機体の全備重量はD-9から1トン近くも増加したため、主脚も大幅に強化されたが、主脚自体の重量増加に対して、Fw-190の電動式引き込み脚のモーター出力では対応できなくなり、油圧式引き込み脚に変更されている。
また、主翼の大アスペクトレシオ化に伴ってフラップ長(=面積)も増大したため、作動中にフラップに掛かる風圧も大きくなり、Fw190シリーズの電動方式から油圧式に変更された。
一方、Fw-190シリーズの特長である、操縦桿と方向舵・昇降舵とを差動クランク機構を介してロッドでダイレクトに繋いだコントロール機構、水平尾翼の電動式角度調整機構などは、そのまま踏襲されている。
さらに、Fw-190では、方向舵のみをコントロールする簡易型の自動操縦機構であったが、本機ではさらに昇降舵、補助翼もコントロールできるようになり、より進化した自動操縦システムが搭載されている。
エンジンにはユンカース・ユモ 213シリーズが採用された。タンクはより高高度・高回転型のダイムラーベンツ・DB 603を希望したが、この期に及んでもメッサーシュミット優先を覆さなかったナチ政権はメッサーシュミット以外の戦闘機には生産工数の少ないユンカース製を指定した。また、ユモ 213でも本来であれば性能向上形が用いられる予定であったが、こちらは戦局の悪化に伴い開発・生産が滞った為に、試作初期の機体はFw190Dシリーズと同じユモ 213Aを搭載したH-0として完成した。
中・低高度用のTa152Cシリーズには、DB603が指定されたが、こちらの量産機はついに1機も完成することはなかった。
もっとも後の評価では、タンク博士の「戦闘機とは競走馬ではなく、軍馬でなくてはならない」という持論からすると、繊細なDB603よりも、ユモ 213で完成されたことは結果的に正しかったともされる。
本機にまつわる逸話として次のようなものがある。タンク自らが操縦桿を握って飛行していた時、2 機の P-51 による追撃を受けたが、実弾が未装備だったので、パワー・ブースターを作動させて悠々と逃げ去ったというものである。
戦後、アメリカがイギリス経由で入手した一機(H-0)がスミソニアン博物館のポール・ガーバー施設倉庫に解体状態で保管されている。唯一の現存機だが、未だ復元される様子は無い。

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2012年7月30日月曜日

FH-1 ファントム(アメリカ海軍艦上戦闘機)

情報元:Wikipedia(FH-1 ファントム)

FHはアメリカ海軍の艦上ジェット戦闘機である。愛称はファントム(phantom:幽霊、亡霊の意)。1945年1月に初飛行した世界初の実用ジェット艦上戦闘機である。

ジェットエンジンの研究が進展するにつれ、アメリカ海軍はジェット戦闘機を装備・運用することを検討するようになった。そのため、第二次世界大戦中の1943年8月30日にマクドネル社へジェット艦上戦闘機の試作発注を行った。 マクドネル社は1939年に設立されたばかりの新興メーカーであり、いくつもの斬新、もしくは奇抜なアイデアを持ってはいたものの、決して技術力の高い企業ではなかった。
にもかかわらずマクドネル社に発注が行われたのは、戦争中のため他の有力航空メーカーの開発・生産力を削がずに済ませるため、リスクの大きいジェット戦闘機の開発を新参・中小のメーカーに配分したという意味合いが大きい。
発注時はXFD-1の名称であったが、Dの文字はダグラス社と重なるために、1947年6月6日にFH-1に名称変更されている

2012年7月29日日曜日

ハインケル He111(ドイツ空軍双発爆撃機)

情報元:Wikipedia(ハインケル He111)

ハインケル He 111は第二次世界大戦前から大戦終了までドイツの航空機メーカー、ハインケルが製造し、ドイツ空軍が使用していたレシプロ双発爆撃機。大戦を通じて使用された主力機で、使い勝手の良さから多くの派生機が誕生した。

ドイツはヴェルサイユ条約の規制のため、戦闘機などの開発を民間機の名目でしており、He 111も民間用輸送機として開発が進められており、民間用にC型が開発された。このC型を元に軍用機も研究、開発が進められた。
こうして開発された機体は当初、重量過多により巡航速度が予定の数値を大きく下回り、「期待はずれの落第機」の烙印を押されたが、その後DB600Aエンジンを搭載した機体が開発され、この機が実戦配備された。本機は楕円翼をもち、爆弾を胴体内に垂直に搭載する独特な爆弾倉を装備していた。
また、ドイツ空軍の「爆撃機の高速化」のコンセプトにも基づいており、当時の爆撃機としては高速であった。

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2012年7月27日金曜日

XF8B(アメリカ陸・海・空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(XF8B)

XF8Bは、アメリカ合衆国のボーイング社がアメリカ海軍向けに開発していたレシプロ長距離艦上戦闘機。第二次世界大戦の終結により量産は行われなかった。

アメリカ海軍は、日本海軍の航空機が長距離性能を重視しておりアメリカ海軍の同種類の機体より航続距離が長かったことを憂慮し、それに対抗するために長距離の航続性能を持つ迎撃および護衛戦闘機の開発仕様を1943年に各航空メーカーに提示した。この仕様は、最大速度550km/h以上で、迎撃、護衛の他、急降下爆撃機や雷撃機として使用できることを求めるなど、かなり欲張ったものであった。久しく艦上戦闘機を開発していなかったボーイング社では、この過酷な要求をクリアするため28気筒3,000馬力の大出力エンジンを搭載し、3翅2重反転プロペラを採用した万能機の設計案(モデル400)を提出し、1943年4月にXF8B-1として試作機3機を受注した。
試作第1号機の初飛行は1944年11月27日に行われ、1945年3月に海軍へ引き渡された。第二次世界大戦中に完成したのはこの1機のみであり、終戦後に残りの試作機2機が完成した。速度性能や航続性能は優秀なものを示したが、大型の機体故に運動性能では軽快性に欠き戦闘機としては物足りないものだった。加えて戦争の終結やXBT2D等の新型単座攻撃機の開発に目処が付いたため、本機の必要性は急速に薄れていった。このため、試作機3機の生産だけで本機はキャンセルされてしまった。
なお、陸軍航空軍でも海軍からレンタルする形で本機のテストを行ったが制式採用はなされなかった。

2012年7月26日木曜日

F-20 タイガーシャーク(アメリカ戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-20 タイガーシャーク)

F-20は、ノースロップ(現ノースロップ・グラマン)社が開発した戦闘機。愛称はタイガーシャーク(Tigershark、イタチザメ) F-5の後継機として輸出を主眼に開発された。大幅な性能向上を果たしたものの輸出許可を巡る政治的情勢に翻弄され、3機の試作機が製作されたにとどまる。

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2012年7月25日水曜日

九九式双発軽爆撃機( 大日本帝国陸軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(九九式双発軽爆撃機)

九九式双発軽爆撃機(きゅうきゅうしきそうはつけいばくげきき)は、大日本帝国陸軍の爆撃機。試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ48。略称・呼称は九九式双発軽爆、九九双軽、双軽など。連合軍のコードネームはLily(リリー)。開発・製造は川崎航空機。

帝国陸軍が当時仮想敵国としていたソビエト労農赤軍との戦闘を意識して、赤軍や中華民国空軍のSB軽爆を元に開発した機体である。
爆弾搭載量や航続距離よりも、戦闘機並みの速度と運動性能が重視され、主として敵飛行場において在地敵機を撃滅することを目的とし、敵地上部隊に対しては反復攻撃でこれを撃破するという、重爆撃機(九七式重爆撃機)と同じく陸軍独自の戦術思想の元に設計された。
日中戦争(支那事変)、太平洋戦争(大東亜戦争)全期間を通して主力軽爆撃機として使用された

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2012年7月24日火曜日

F4U コルセア(アメリカ海軍艦上戦闘機)

情報元:Wikipedia(F4U コルセア)

F4U コルセア (F4U Corsair) は、アメリカのチャンス・ヴォートが開発し、第二次世界大戦と朝鮮戦争でアメリカ海軍と海兵隊が使用したレシプロ単発単座戦闘機である。
ヴォート社の他にグッドイヤー社とブリュースター社でも生産され、グッドイヤー社製の機体はFG、ブリュースター社製の機体はF3Aという制式名称が与えられた。また、AUという呼称がある攻撃機型も存在する。

ブリュースター F2A バッファロー艦上戦闘機などの後継として航空機メーカーのチャンス・ヴォートが1938年2月に開発を開始した。Corsair:コルセアとは海賊の意。逆ガル翼が特徴的な機体である。
1938年2月にアメリカ海軍が、戦闘機の開発要求を出し、チャンス・ヴォートは4月に1,200馬力級エンジンを搭載するV-166A案と2,000馬力級エンジン搭載のV-166B案を提出した。当時、戦闘機用エンジンの主流は1,000馬力以下であったが、6月11日にV-166B案がXF4U-1として、海軍より試作発注がなされた。当時としては大きさも怪物級であり、海軍で一番大きなプロペラをつけた、海軍一重たい艦上戦闘機となった。
初飛行は1940年5月29日である。試作機XF4U-1は一度墜落事故を起こしているものの、時速650kmを記録するなど、性能は良好であった。量産型F4U-1の初飛行は1942年6月25日である。機体は完成したものの、F4F ワイルドキャットの後継機としての座はF6F ヘルキャットに譲っている。失速挙動が危険・前方視界が不十分・プロペラブレードが長く下手をすると着艦(着陸)時に甲板(地上)にプロペラを打ち破損する可能性がある、といったものがその原因であり、すでに艦上での実績と戦果もあるF4Fの設計改良版であるF6Fのほうが信頼性に優れるため、ということだったようである。このことから一部の意見では「航空母艦に搭載される為の機体設計をしなかった欠陥機」との意見もある。

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2012年7月23日月曜日

F-102 デルタダガー(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-102 デルタダガー)

F-102はジェネラル・ダイナミクス社のコンベア部門が開発し、アメリカ空軍に制式採用された戦闘機(要撃機)。愛称はデルタダガー(Delta Dagger)。初飛行は1953年。<br /> 俗にセンチュリーシリーズと呼ばれる一連のもののひとつである。

アメリカ空軍は北米大陸に来襲すると想定されたソ連の核武装爆撃機を要撃する目的で、1949年から新型迎撃機の検討に着手した。1950年にMX1154として新型迎撃機の提案要求が航空機メーカーで出され、コンベア社案がF-102として採用された。開発契約は1951年に結ばれている。F-102の機体形状はインテイクを胴体側面に持つ単発デルタ翼機で、垂直尾翼も三角翼と、前作XF-92に続き、コンベアに在籍していたアレキサンダー・マルティン・リピッシュ(Alexander Martin Lippisch)のコンセプトが色濃く発揮されている。<br /> 1951年12月にYF-102が正式発注されたが、これは試作機を表すY記号がついているものの純粋な試作機をパスして、いきなり量産準備型の生産に入る「クック・クレイギー・プラン」方式で開発が急がれた。先に生産ラインを組み、スローペースで量産準備型を製作しつつ並行してテストを行い、結果を本格量産型にフィードバックすることで開発期間の大幅短縮、つまりボマー・ギャップの解消を目論むものだったが、基本設計に問題が発見された場合には、混乱を招くリスクがある。後述の通り、本機はクック・クレイギー・プランの最悪例になってしまった。<br /> F-102の最も有名な逸話にエリアルールの初採用がある。YF-102の初号機は1953年10月24日に初飛行したが間もなく墜落し、開発は試作2号機の完成まで遅延した。YF-102は10機製造され、各種試験・改装が行われたものの、音速領域で衝撃波の発生により抵抗が急増する抵抗発散のため、風洞試験の予測通り水平飛行で音速を超える事はできず、一時は計画中止も危ぶまれた。<br /> そのため11号機(YF-102A)以降において、エンジンをP&WJ57-P-11(A/B推力:6,804kg)から同P-23(7,258kg)に増強すると共に、NACAラングレー研究所のリチャード・ウィットカム(Richard T. Whitcomb)が発見したばかりのエリアルール理論を基に、抜本的に改設計してようやく音速を超えることができた。機体の断面積変化を滑らかにすると抵抗が減少するという単純な法則で、機体の主翼部取付部は断面積が急増するので、これを相殺するため胴体中央部のくびれと尾部の張り出しを設け、断面積勾配をなだらかにするもので、その他にも胴体延長、キャノピー変更、主翼の大きな前縁キャンバーと端部捻り上げ等、別機と言って良いほど外観が変更された。<br /> 電子装置の開発も遅延し、新型の火器管制装置MX1179の完成は間に合わなかったため、当初はF-86D由来のE-9(後のMG-3)を装備している。MG-3は後にMG-10に更新されたほか、1960年代に入るとSAGEシステムの整備に従い、これとリンクし半自動的要撃が可能となっている。<br /> YF-102Aは1954年12月20日に初飛行し、翌21日には音速突破を果したが、既にマッハ2級を目指したロッキード F-104が同年2月に進空した後だった(実際にマッハ2を突破するのは翌年)。量産型のF-102Aは翌1955年から配備開始されたが、クック・クレイギー・プランによって既にYF-102用の生産治具が用意されてしまっており、F-102Aの量産に当ってそれらの大半を作り直さねばならず、多大な時間的・金銭的浪費と資材の無駄をもたらした。<br /> 固定機銃はなく、通常弾頭型AIM-4 ファルコン空対空ミサイル又は核弾頭型AIM-26Aファルコン(最大6発)と、2.75インチ空対空ロケット弾を、機内弾倉に搭載できた。デルタ翼特有の広大な機内スペースにより燃料搭載量が多く、超音速機としては空中給油の援助なしでも滞空時間が長く哨戒任務には適していたが、依然アンダーパワーで加速性・上昇力に劣り、また当時の電子機器の耐G性の低さから機動に強い制約があり、対戦闘機戦闘は回避するよう厳命されていた。<br /> F-102の低性能は空軍を失望させ、より性能の優れた要撃機の開発が急務となった。新型の火器管制装置MX1179を搭載し、空力的改良とパワーアップも加えた改良型:F-102B計画は、1956年にF-106として制式採用された。しかし非常に高価であったため、F-106配備数は340機に留まった。そのため空軍は、元来は別目的の機体であったF-101戦闘機を、補完目的の要撃機として制式採用している。<br /> また、サイド・バイ・サイド式の座席配置の練習機型TF-102も120機が製造された。操縦席が横に広がったため、エンジンのインテイク部分がF-102Aと大きく異なる。単座型と同じ火器管制装置と武装を有し、戦闘練習機とする目論見だったが、操縦席周りの抵抗増からダイブ時以外音速を超えられない鈍足振りで、純粋な練習機として運用された。本機の失敗を教訓として、これ以降単座戦闘機を改造して練習機兼用の複座型を派生する際には、タンデム配置にするのが通例とされている。

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2012年7月22日日曜日

二式複座戦闘機 「屠龍」( 大日本帝国陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(二式複座戦闘機 「屠龍」)

二式複座戦闘機(にしきふくざせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ45改。愛称は屠龍(とりゅう)。略称・呼称は二式複戦、二式双戦など。連合軍のコードネームはNick(ニック)。開発・製造は川崎航空機。 名称に複座とつくのは、同年に採用された二式単座戦闘機「鍾馗」と区別するため。

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2012年7月20日金曜日

P-38 ライトニング(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-38 ライトニング)

P-38 ライトニング (P-38 Lightning) は、ロッキード社が開発し、1939年にアメリカ陸軍に正式採用された戦闘機。
愛称であるライトニング(Lightning)は稲妻。日本側では「メザシ」や、戦争初期、低高度性能が低く格闘戦に持ち込みやすかった頃に「容易に撃墜できる=ペロリと食えるP-38(=Pろ8)」から「ペロハチ」と呼んでいた。しかし、速度を生かした一撃離脱戦法に切り替えてからはキルレシオが逆転、速度で圧倒的に劣る日本機を寄せ付けない強さを発揮し、「双胴の悪魔」と称されるようになった。 米軍エース・パイロットの中でそれぞれ第1位と第2位の記録を残した、リチャード・ボングとトーマス・マクガイアの搭乗機も、共にP-38である。また、太平洋戦争における日本軍機の撃墜数は3,785機とされており、これは米軍機の中ではF6F、F4Uに次ぐ第3位の撃墜数である。
一方イギリスに展開したP-38も一撃離脱でドイツ機と戦ったが速度で同等、機動性で大幅に劣るP-38はドイツ空軍単発戦闘機に大いに苦戦した。
1943年5月以降、それまで航続距離がスピットファイアと大して変わらなかったP-47 サンダーボルトに外装補助タンクが取り付けられ、重爆の護衛にもついていけるようになるとP-38 ライトニングは北アフリカ戦線に送られた。

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2012年7月19日木曜日

一式陸上攻撃機( 大日本帝国海軍攻撃機)

情報元:Wikipedia(一式陸上攻撃機)

一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき)は第二次世界大戦中の大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。「一式陸攻(いっしきりくこう、-りっこう)」の短縮形でも呼ばれる。
前作の九六式陸上攻撃機同様、三菱内燃機株式会社の設計・製造であったが、後継とされた陸上爆撃機「銀河」の戦力化が遅れた為、終戦まで主力攻撃機として使用された。連合国側のコードネームは「Betty」(ベティー)。

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2012年7月18日水曜日

リパブリック F-84 サンダージェット(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-84)

F-84とはアメリカ合衆国の航空機メーカー、リパブリック社で開発され冷戦期の西側諸国を中心に使用されたジェット戦闘機である。
大きく分けて、直線翼を持つF-84A,C,D,E,Gと後退翼を持つ改良型のF-84F以降に分類され、偵察型のRF-84F、試作に留まったがターボプロップエンジンを装備したXF-84Hのインテークは外側(主翼付け根)に配置されている。後退翼型の技術は後にF-105へと継承されることになる。

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2012年7月17日火曜日

ユンカース Ju88(ドイツ空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(ユンカース Ju88)

Ju 88 は、第二次世界大戦前にドイツの航空機メーカー、ユンカース社によって製造され、大戦終了までドイツ空軍で運用された中型双発爆撃機。ナチス・ドイツの主力爆撃機の地位を占めた他、夜間戦闘機や偵察機としても活躍した。

ドイツ航空省は1935年に「戦闘機より速い爆撃機」というコンセプトに基づき、800 kg の爆弾を搭載でき、500 km/h を発揮できる爆撃機の開発を各社に要求した。ユンカース社はこれを実現するため、徹底した空気力学的洗練を図った機体を設計した。
試作3号機は1937年9月当時のBf 109戦闘機を 50 km/h も上回る 523 km/h を実現し、実戦配備が決定した(フル装備の量産型は 470 km/h)。一見すると空冷星型エンジンを装備しているようにみえるが、実際は円筒形のカウリングの中にラジエターを環状に配置した液冷エンジンであった。この手法はFw 190のD型などにも用いられている。
また、防御火器として、7.92mm機関銃一丁を備える銃座がコックピット後ろに設けられた。改良型では銃が二丁に増やされたが、それぞれが独立して設置され不便だったため、取り外して運用された例もある。夜間戦闘機仕様では、後部機銃は装備されていない。

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2012年7月16日月曜日

F-15 イーグル(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-15 イーグル)

F-15は、アメリカ合衆国のマクダネル・ダグラス社(現ボーイング社)の開発した制空戦闘機。愛称はイーグル(鷲)(Eagle)

アメリカ空軍などで運用されたF-4の後継として開発された、長射程空対空ミサイルの運用能力と高性能ドップラー・レーダーを持つ双発の大型制空戦闘機で第4世代ジェット戦闘機に分類される。後継機であるF-22が2005年に戦力化されるまでは「世界最強の戦闘機」としても名高い機体であり、現在も第一線で世界水準の性能を維持し続けている。F-15のパイロットは機体の愛称から「イーグルドライバー」と呼ばれている。
二枚の垂直尾翼を持つとはいえ、平凡な平面形の主翼に水平安定版を組み合わせた保守的な設計のまま、当時としては画期的な機動性を実現した機体である。採用国は2010年現在までに空戦における被撃墜記録は無いとしている。単座型と複座型の2種類があるが飛行性能・戦闘能力に大きな差はない。
当時は、一機当りのコストが約3,000万ドル(アメリカ空軍での単価)と高価な機体となったため、アメリカ空軍でもF-16との「Hi-Lo-Mix」運用を甘受することとなり、購入可能な国は経済力のある国に限られていた。それに加え輸出先も、その能力から政治的・軍事的に親密な国への売却に限られていた(F-22が開発され派生型F-15Eが輸出される頃には事情が変わる)。その結果、新造機からの運用はアメリカ空軍による877機の他イスラエル・日本・サウジアラビアの3ヵ国の合計356機(ライセンス生産を含む)、総計1,233機で終わった。とはいえ、F-4と共に冷戦下のアメリカ空軍とマクダネル・ダグラス社を代表する戦闘機といえる。

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2012年7月15日日曜日

MiG-21

情報元:Wikipedia(MiG-21)

MiG-21(ミグ21;ロシア語:МиГ-21ミーグ・ドヴァーッツァチ・アヂーン)は、ソ連のミグ設計局が開発した戦闘機。多くの機数が生産され、世界各国に配備がされた。ソ連では三角翼機はしばしばその翼形からバラライカ (ロシアの弦楽器で、三角形の胴体が特徴)と渾名されていたが、MiG-21も例外ではなかった。北大西洋条約機構(NATO)の使用するNATOコードネームはフィッシュベッド (Fishbed)。

MiG-21は、ソ連において1950年代前半より開発された。開発に当たり、設計局では二つの系統の試作機を製作した。そのうち先に完成したYe-2 (Е-2イェー・ドヴァー)は、MiG-15からMiG-17、MiG-19と受け継がれてきた後退翼を持った機体で、MiG-19から開発された後期の試作機とよく似た外見の機体であった。一方、もうひとつの試作機Ye-4(Е-4イェー・チトィーリェ)は、新しい水平尾翼つき三角翼を持った機体であった。Ye-2とYe-4は、ともに1955年に初飛行を行い、同年中に展示飛行も済ませ公に姿を現したが、このときスホーイ設計局で開発されていた2種類の機体も飛行を行った。同じ年に四種類の試作機が産声を上げたわけだが、このうちスホーイの試作機は後退翼のSu-7と三角翼のSu-9に発展した。そしてMiG-19から正統的に発展した後退翼のYe-2は、改良型も製作されMiG-23(Tip 23)という名称で量産するという計画も出されたものの、結局は開発中止となった。残ったYe-4がMiG-21の原型である。

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2012年7月14日土曜日

スーパーマリン スピットファイア(イギリス空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(スーパーマリン スピットファイア)

スーパーマリン スピットファイア (Supermarine Spitfire) は、イギリスのスーパーマリン製単発レシプロ単座戦闘機である。第二次世界大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用された。バトル・オブ・ブリテンの際、イギリスをドイツ空軍の手より救った救国戦闘機として有名である。
楕円形の特徴的な主翼を持ち、翼断面は高速を発揮するために薄かった。主任設計技師であるR.J.ミッチェル(1937年死去)とジョセフ・スミスを始めとする彼の後継者たちによって設計されたスピットファイアは、パイロットたちからの支持は厚く、第二次世界大戦のさまざまな状況で活躍した。基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上(しかも排気量はグリフォン・エンジンまで変化していない)によって長期間にわたり活躍し、23,000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。

スーパーマリン社の主任設計技師であったR.J.ミッチェルは、空気抵抗を減らすために非常に流麗な流線形の機体をもった水上機を製作し、ネイピア ライオンやロールス・ロイス社製の強力なエンジンを搭載して、「シュナイダー・トロフィー・レース」で3度の優勝を成し遂げている。こうした先進的な設計は、戦闘機にも応用できる部分が大きかった。1931年、ミッチェルはイギリス空軍の仕様F7/30に合致する404 km/h以上の速力を持つ戦闘機の開発を始めた。
1934年2月に初飛行した最初の試作機は、風防がなく、空気抵抗の大きい固定脚をもつガルウイングの単葉機で、エンジンにはロールス・ロイス ゴスホークを搭載していた。このタイプ 224は、他社が設計したものと同じく、空軍の期待に添うものではなかった。ミッチェルは、レース機の経験を生かした設計に取り組み、より洗練された機体の設計を進めた。新しく設計されたタイプ 300には、主翼の小型化、主脚引き込み機構を搭載し、1934年7月にイギリス航空省へ提出されたが、採用には至らなかった。このタイプ 300に改良を進め、風防、酸素マスク、そしてより強力なロールス・ロイス社製のマーリンエンジンが搭載された。1934年11月には、スーパーマリンの親会社であるヴィッカース・アームストロングの支援を受け、タイプ 300の細かな設計が進められた。

1935年1月3日に航空省は正式に契約し、必要な装備の要求を掲載した仕様F10/35を発行した。武装は、ヴィッカース7.7 mm機関銃4丁であったが、1935年4月に航空省のラルフ・ソアビーによる推薦で、ブローニング7.7 mm機関銃8丁へ改められた。1936年3月5日に試作機(K5054)がイーストリー・エアロドローム(現サウサンプトン空港)において、初飛行を行った。その後、ジェフリー・クイールとジョージ・ピカリングらによる試験飛行で528 km/hを記録し、より鋭利なプロペラでは、557 km/hに達した。1936年6月3日には、航空省から310機のスピットファイアが発注された。
楕円翼の採用は生産性の悪化を招いたものの、捻り下げや戦闘機としては極めて低い翼厚比と併せて、大迎え角での誘導抵抗の減少、翼端失速の防止、翼内武装の充実、高速といった長所をスピットファイアに与えた。のちのスピットファイアの翼は、これよりももっと薄く、まったく異なった構造になっている。

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2012年7月13日金曜日

メッサーシュミットBf110(ドイツ空軍重戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミットBf110)

メッサーシュミットBf 110は、第二次世界大戦前にドイツで開発された双発プロペラの重戦闘機である。Me 110とも呼ばれる。 高速戦闘機として登場したが、バトル・オブ・ブリテンでは期待されていた対戦闘機戦で大きな被害を受けたため低い評価がなされている。しかしその後、重武装と高速性能、航続距離を生かした戦術開発によりドイツ空軍にとっては無くてはならない役割を果たしている。

第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間に、各国では長距離侵攻のための航続力と速度性能を両立させる双発戦闘機の開発が模索されていた。 ドイツ空軍省ではヘルマン・ゲーリング空軍総司令官がこの構想を積極的に支持したため、1934年秋に"戦略重戦闘機開発仕様書"を発行し、長距離侵攻ができる航続力と快速を兼ね備える多目的な戦闘機"Kampfzerstörer"(爆撃駆逐機)の開発を要請した。具体的には双発、複座、金属製単葉機、爆弾倉と大口径砲を備えることを条件としていた。
7社から提示された試作プランの中で、ヘンシェル社、フォッケウルフ社と、BFW社(のちのメッサーシュミット社)の3社によって競作されることとなり、それぞれにHs 124、Fw 57、Bf 110の型式番号が与えられた。 Hs 124とFw 57は要求に沿って爆弾倉と銃塔を備えた機体として試作されたものの、要求を満たす性能を達成することができなかった。これに対してBFW社は仕様書と異なり爆弾倉が無い小型でコンパクトな機体プランを提出したため試作許可がおりなかったが、運、あるいはエルンスト・ウーデットによる圧力によって試作される運びとなり、1936年5月12日にBf 110 V1試作機が初飛行を遂げた。 試作機は高い速度性能を示し、当時のドイツ軍が実戦で使用していたBf 109B戦闘機の最高速度470km/hに対し、DB600エンジンを搭載したBf 110 V1は509km/hの速度を記録している。これにより1937年に採用が決定され、ドイツ空軍は本機を駆逐機 (Zerstörer) と呼び従来の単発戦闘機と区別し大きな期待をかけることとなった。
Bf 110 V2試作機が10月に、翌1937年から1938年初頭にかけて前生産型のA-0型が4機製作された。ここでDB 600エンジンの生産性と信頼性の低さが問題となったため、後継機のDB 601エンジンを搭載することが決定される。DB 601の完成までは暫定としてJumo210エンジン(600馬力)が選定された。Jumo210エンジンは出力が低く速度性能が大幅に低下してしまい、改良型のJumo210G(700馬力)を搭載したBf 110 B型にしても前生産型、戦闘機型、写真偵察機型、訓練機型が合計45機生産されたにとどまっている。
1938年の終わりには待望のDB601エンジン(1,050馬力)が完成。これを搭載し、ラジエーターの配置等の改良が行われたC-0型は最大速度545km/hの高速で飛行し、これにより初の大量生産が行われることになった。 Bf 110は双発機としては小型の機体で、細身の胴体ながら十分な拡張性があったため、後の装備追加に対応することが出来た。高速性能には優れていたが、機体は重量があり単発戦闘機に比べ旋回性能や機動性に劣り加速性能の悪いことがテストパイロットから指摘されている。
武装としては機首上面に7.92mm機銃4挺、機首下面に20mm機関砲2門を集中配置し高い攻撃力をもっている。またコクピット後方に防御用の7.92mm機銃座1基を備えていた。

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2012年7月12日木曜日

B-36(アメリカ陸・空軍戦略爆撃機)

情報元:Wikipedia(B-36)

B-36とはアメリカ合衆国のコンソリデーテッド・ヴァルティ(コンベア)社が開発した戦略爆撃機。冷戦の初期段階において、アメリカ空軍の戦略航空軍団(SAC)における主力爆撃機となった。 正式な愛称は存在しないが、公式な場でもしばしば「ピースメーカー(Peacemaker)」との表現がなされ、これが半ば公式な呼称となっている。他には「コンカラー」、「ビッグスティック」などがある。

第二次世界大戦中に計画された爆撃機であるが、1945年8月に日本が連合国軍に敗北し、第二次世界大戦が終結したため開発が急がれず、初飛行は1946年8月8日であり、配備は1948年で最終的には1954年まで製造された。
退役したのが、大型ジェット爆撃機のボーイングB-52が配備された後の1959年であり、活動した期間が短い機体である。
B-36は6発レシプロ機(プロペラは推進式に主翼の後ろに取り付けられている)であったが、推力不足気味で、開発されたばかりのジェットエンジンを左右の主翼に2基ずつ計4基をパイロンで吊り下げ追加装備して空前の10発爆撃機となった。
機体表面にはマグネシウム材を用いていたため、墜落事故を起こすと他の爆撃機も同様であるが跡形も無く全焼することが多かった。
現役時代に朝鮮戦争があったが、全てが核戦争勃発時の主力核爆弾搭載機として温存が図られたのと、すでにジェット戦闘機の時代であり、飛行速度の遅さによる被害が懸念された為、爆撃機としての実戦投入はされなかった。

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2012年7月11日水曜日

二式単座戦闘機 鍾馗(大日本帝国陸軍局地戦闘機)

情報元:Wikipedia(二式単座戦闘機 鍾馗)

二式単座戦闘機(にしきたんざせんとうき)は、第二次世界大戦での日本陸軍の重単座戦闘機。キ番号(試作名称)はキ44。愛称は鍾馗(しょうき)。戦争後期にB29の邀撃など本土防空で活躍した。略称・呼称は二式単戦、二単、二式戦闘機、二式戦、ヨンヨンなど。連合軍のコードネームはTojo(トージョー)[1]。開発・製造は中島飛行機。

それまでに開発された他の日本戦闘機とは異なり、旋回性能よりも速度を優先させており、優れた上昇力、加速力、急降下性能を備えた優秀な迎撃機であったが、反面、日本の戦闘機としては旋回性能、航続力は低く、翼面荷重が大きい。これらは欧米の戦闘機と比べると標準的な値であったが、操縦の容易な従来の軽戦での格闘戦に慣れた日本のベテランパイロットには、離着陸の難しさ、航続距離の不足などを理由に嫌われる傾向にあった。設計に携わった糸川英夫技師は、『一式戦闘機「隼」は時宜を得て有名だが、自分で最高の傑作だと思っているのは、それの次に設計した「鍾馗」戦闘機である』と戦後の著書に記している。 最高速度(二型甲)605km毎時(高度5000m)、航続力1200km、1225機生産(1型~試製3型まで)。

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2012年7月10日火曜日

サヴォイア・マルケッティ SM.79(イタリア空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(サヴォイア・マルケッティ SM.79)

サヴォイア・マルケッティ SM.79 はサヴォイア・マルケッティ社が開発したイタリア空軍の爆撃機。愛称は「スパルビエロ(Sparviero、ハイタカの意)」。

SM.79は元はレース用に開発された旅客機で、原型機は1934年に初飛行した。その高性能からイタリア空軍は爆撃機に転換することを指示し、1936年に爆撃機型の試作機が初飛行した。その後、すぐに量産が開始され1937年のスペイン内戦で使用されたが、高性能・高速の爆撃機として好評であった。

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2012年7月9日月曜日

F-101ヴードゥー(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-101ヴードゥー)

F-101 ヴードゥー (Voodoo) はアメリカ合衆国のマクドネル社が開発した、双発の超音速戦闘機。初期設計では爆撃機の護衛用であったが、その後地上支援や写真偵察にも転用された。アメリカ空軍の他にカナダ空軍が広く採用し、台湾空軍も偵察機型を少数機導入した。当初の計画とは異なり、核攻撃任務兼任の偵察機および大型要撃機として実用化され、1954年の初飛行の後、偵察機型は1960年代からベトナム戦争にも投入され、アメリカ空軍・カナダ空軍の迎撃機型は北アメリカ大陸の防空にあたった。1985年までに全機が退役している。

アメリカ空軍戦略航空軍団 (SAC) は1951年1月に長距離戦闘機の開発要求を各社に出した。マクドネル社は開発中止となった長距離戦闘機の試作機 XF-88(1948年10月20日初飛行)を大幅に改良した案を提出し、それが受け入れられ、F-101の開発が開始された。なお、F-101の名称が付けられたのは1951年11月のことである。試作機YF-101Aは1954年9月29日にエドワーズ空軍基地で初飛行した。初飛行で音速突破を記録している。
初飛行の日に戦略航空軍団の長距離戦闘機計画は中止となった。しかし「核爆弾1発を搭載して敵地深くに高速で侵入する」という当時の戦術航空軍団 (TAC) の戦闘爆撃機の構想に合致した機体だった事、またF-102戦闘機の性能の低さに失望していた防空軍団 (ADC) より長距離要撃機として関心が示されたため、設計を変更し引き続き開発は続行された。
低翼配置の後退翼の機体で、テールに尾翼があるというのは、XF-88と同じであるが、胴体は3.2m延長され、尾翼面積も拡大している。水平尾翼の位置も垂直尾翼基部から垂直尾翼上部に移されている。その一方、主翼面積はXF-88とさほど変わらず。翼面荷重は高くなり、後述する通り本機の欠点となった。機関はジェットエンジンの双発であり、インテークは主翼付け根に、ノズルは胴体後部(テールの付け根)にある。
本機は登場した当初はマッハ1.7を誇り、当時の最高速の戦闘機であったが、程なくしてマッハ2級の戦闘機が続々と登場して、一転して速度性能では平凡な機体になってしまった。ただ本機の最高速度がマッハ2に達しなかったのは、インテークの形状が固定式であるためであり、J57エンジン双発のパワーは、決して後に登場したマッハ2級機に劣るものではない。そもそも超音速機と言えど、そうそう超音速が出せるものではなく(アフターバーナーを使用する事によりたちまち燃料を消費してしまう)、マッハ2以上の最高速度に大した意味がある訳ではない。本機がマッハ1級でありながら、高速偵察機としてベトナム戦争で活躍した実績が、その事実を如実に物語っている。80年代以降、むしろ戦闘機の最高速度は重要課題ではなくなったため頭打ちになり、低下していると言える状況である。
一方で、水平尾翼をT字配置として垂直尾翼の上に持ってきた設計は、大失敗であったと言える。迎角を大きく取ると主翼の後流が水平尾翼の効果を無くし、急激な機体の頭上げ(ピッチアップ)を生じる事となった。そのためピッチ・コントロール・システムが付加され、機体の運動を制限して対処している。そのため高翼面荷重の設計と相まって、本機の運動性能はあまりよくない。要撃機や偵察機としてはともかく、本来の開発目的であった戦略航空軍団の長距離戦闘機(爆撃機護衛、あるいは爆撃機の安全のための敵国上空の制空権確保が任務であり、格闘戦能力は必須である)には全く向いていなかったと言える。
防空軍団では完全自動要撃戦闘システムを採用した F-106に対し、本機をパイロットのマニュアル操縦を重視した要撃機として位置づけていた。F-89戦闘機の後継機として主にアラスカの部隊で使用された。広大な北極海をパトロールするには長い航続距離が必要で、また半自動式防空管制組織 (SAGE) の十分な支援を受けられない環境であったので、本機のような戦闘機がF-106とは別に必要であった。要撃機型が全て複座なのも、よりパイロットの能力を重視した結果である。但し以上の説明は、要撃機の本命と言うべきF-106の採用の妨げにならないための、空軍による理論武装でもある。
戦術航空軍団では戦闘爆撃機として当初採用されたが、先だって採用されていた超音速戦闘機であるF-100が戦闘爆撃機としても十分使用できる機体であった事、戦術航空軍団の構想に基づく戦闘爆撃機としては当初から開発された”本命”の機体であるF-105の配備が迫っていた事から、この任務ではあまり用いられなかった。そのため高速性能を活かした偵察機として活用され、ベトナム戦争前半の主力偵察機として運用された。なお偵察機型は固定武装は有さないが、後の改装で核爆弾投下能力は有するようになっていた。強行偵察という任務の過酷さゆえに損耗は激しく、F-105と並んでベトナム戦争で使い尽くされた機体となった。空軍州兵 (ANG) の機体まで動員されてベトナム戦争に送られたため、穴埋めとして戦術航空軍団で第一線を退いた戦闘爆撃機型が偵察機型に改修されて空軍州兵に配属された。
最後までF-101を使用したのはカナダ空軍であり、1985年までには全機が退役した。

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2012年7月8日日曜日

IAI クフィル(イスラエル航空宇宙軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(IAI クフィル)

クフィル(Kfir)はイスラエル・エアクラフト・インダストリー(IAI)がミラージュIIIをベースに独自改良を行って開発した戦闘機。Kfirとはヘブライ語で子ライオンの意。日本語ではクフィールと表記されることもある。

第三次中東戦争後、フランスのシャルル・ド・ゴール政権の中東外交政策転換により、イスラエル空軍が50機発注したミラージュ5(ミラージュIIIの電子機器を簡素化し実戦環境で機体の可動率の効率化を狙った機体)の輸出が禁止されイスラエル空軍に引き渡されなかったことが、本機の開発の発端だった。
これを受け、IAIは既に機体のライセンス生産の契約を結んでいたミラージュ5に第三国から図面を盗み出し製造したSNECMA アター9Cエンジンを組み合わせることで、独自生産型ミラージュ5と言えるネシェル(Nesher、ヘブライ語で鷲の意)を完成させたものの、イスラエル空軍は高地・高温条件下や兵装搭載時におけるエンジンのパワー不足に不満を持っていた。
そこで、同時期にアメリカ合衆国からF-4Eを導入した事から、ミラージュIIIのエンジンをF-4Eに搭載されていたJ79に換装し、能力向上を図る目的で計画された機体サルボが開発され、ネシェルとサルボの開発成果を組み合わせた機体であるクフィルの製作へと繋がった。
フランス製のミラージュIIIにJ79を搭載したサルボは1970年10月に飛行した。この試作機に続いて1973年6月にラーム(Raam、ヘブライ語で雷鳴の意)と名づけられたプロトタイプが製作された。続いてバラク(Barak、ヘブライ語で電光の意)と名付けられた機体がIAIによって生産され、1973年10月6日に勃発した第四次中東戦争中に運用された。クフィルの名称でJ79に最適化された機体の量産開始は第四次中東戦争終了後の1975年4月のことだった。
輸出も行われたが、アメリカによるJ79の再輸出許可が大幅に遅れたため少数の国にしか輸出されなかった。その中でアメリカ海軍・海兵隊はF-16Nが導入されるまでの間、F-21の名称でリースし仮想敵機として運用した。イスラエルでは既に退役しているが、未だ多数が保管状態にあるとされる。

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2012年7月7日土曜日

B-24 リベレーター(アメリカ陸・海・空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(B-24 リベレーター)

B-24は、第二次世界大戦時のアメリカ陸軍航空軍の主力大型爆撃機。アメリカ合衆国の航空機メーカー、コンソリデーテッド・エアクラフト社(以下コンソリデーテッド)で開発、製造された。愛称は「解放者」という意味の"Liberator"(リベレーター)であった。米海軍でも"PB4Y-1"として対潜哨戒任務に用いられた。

1938年にコンソリデーテッド社は、アメリカ陸軍航空隊からB-17のライセンス生産の依頼を受けたがそれを断り、逆に独自の4発大型爆撃機の開発を提案して、短期間に新型機を開発した。
コンソリデーテッド社は、社内検討していたモデル31案を土台にモデル32案を作成した。これがアメリカ陸軍航空隊に受け入れられ、1939年2月に試作型の"XB-24"を1機受注した。これに続いて4月には、増加試作機の"YB-24"を7機、8月には量産型の"B-24A"を38機受注した。
1939年12月29日は初飛行に成功した。この時の飛行速度が440kmと低速であったため、排気タービン過給器(ターボチャージャー)装着型の"XB-24B"に改造された。引き続き前量産型の"YB-24"、およびほぼ同等の"B-24A"が生産されたが、これらの初期生産型についてはイギリスに送られ"LB-30A/LB-30B"(リベレーターI/リベレーターII)の名称で哨戒業務に就いた。
その後、アメリカ陸軍航空隊向けに生産が開始された。当初は輸送機として使われたが、1941年12月にターボチャージャー付爆撃機"B-24C"が9機引き渡され、翌年1942年1月に本格量産型となる"B-24D"が登場した。

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2012年7月6日金曜日

一式戦闘機 隼(大日本帝国陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(一式戦闘機 隼)

一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしきせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ43。愛称は隼(はやぶさ)。呼称・略称は一式戦、一戦、ヨンサンなど。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発・製造は中島飛行機。
四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、太平洋戦争(大東亜戦争)における主力機として使用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては大日本帝国海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位。

一式戦闘機(隼) プラモデル・模型等
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2012年7月5日木曜日

YB-35・YB-49(アメリカ陸・空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(YB-35)

YB-35(Northrop YB-35) は、アメリカの航空機メーカーであるノースロップ社が、第二次世界大戦の最中にアメリカ陸軍航空隊のために開発した無尾翼レシプロエンジン重爆撃機の試作機である。この爆撃機は尾翼がなく胴体そのものが主翼という全翼機であり、実際に飛行出来る大型の航空機に全翼機の設計が採用された世界最初の機体であった。愛称はフライング・ウィング(FLYING WING)。
また同様な形状で推進機関をジェット化したYB-49という発展型も製作された。いずれの機体も次期戦略爆撃機として、より一般的な形態のコンベア B-36が採用・実戦配備されたため量産されることはなかった。そのため、B-35開発計画を含む全翼機が実用化することはなかった。ただし、レーダーに捕捉されにくいという機体設計概念自体は後にステルス機として知られるB-2 スピリット開発の際に活用された。


情報元:Wikipedia(YB-49)

YB-49は、アメリカの航空機メーカーであるノースロップ社が、第二次世界大戦終結直後にアメリカ空軍のために開発した全翼重爆撃機の試作機である。2機が製作されたYB-49は、同様な形状でレシプロエンジン推進のYB-35の発展型であり、同機をジェット化したものであったが、実戦配備されることはなく、より一般的な形態のコンベア B-36が採用された。しかしながら、レーダーに捕捉されにくいという機体設計概念自体は、ステルス機として知られるB-2 スピリット開発の際に活用された。

2012年7月4日水曜日

XP-67(アメリカ陸・空軍双発戦闘機)

情報元:Wikipedia(XP-67)

マクドネル XP-67 (McDonnell XP-67) は第二次世界大戦後期に米国のマクドネル・エアクラフト(以下、マクドネル社)が開発していたアメリカ陸軍航空軍向けの単葉単座レシプロ双発戦闘機である。機体の非公式名はバット(Bat) 。後に一大軍用航空機メーカーになるマクドネル社が最初に製作した軍用機で、胴体及びエンジンナセルと主翼の翼幅方向の縦断面形を連続的に繋げること(ブレンデッドウィングボディ)により空気抵抗(特に干渉抗力)の軽減を図った意欲的なスタイルであった。しかし、試験時に発生した諸問題と需要の消滅により試作1機のみで開発は中止された。

岡部ださく世界の駄っ作機の1巻に登場します。 私も購入しましたが、飛行機好き(戦闘機、攻撃機、爆撃機)にはたまりません。

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2012年7月3日火曜日

XF-92(アメリカ空軍試作戦闘機)

情報元:Wikipedia(XF-92)

XF-92は、アメリカ合衆国のコンソリデーテッド・ヴァルティ航空機(コンベア、Consolidated Vultee Aircraft Corp.)が試作した、西側初のデルタ翼(三角翼)を持つジェット機。1機のみ製造。

1945年9月にアメリカ陸軍航空軍から最高速700mph(≒608kt, 1,126kmh)、50,000フィートまで上昇4分以内のスペックで、超音速迎撃機計画 MX-813 の試作発注を受けたコンベア社は、ラムジェット推進で後退角45度の主翼とV字尾翼を持つ夢想的な基本案に、社内コード7002を与えて基礎研究を開始したが、風洞実験の結果、低速時と大仰角時に著しく安定を欠く事が明らかになり、一時は頓挫しかかった。
翌1946年7月、敗戦国ドイツからペーパークリップ作戦で渡米した無尾翼機の権威アレキサンダー・マルティン・リピッシュ(Alexander Martin Lippisch)を技術顧問に迎え、グライダーで飛行試験が進んでいた P.13a を下敷きにしたデルタ翼案で全面的に再設計することになり、XP92 として軍の承認を経て正式着手された。
計画の初期段階では、競争試作機のリパブリック XF-91 同様にターボジェット+ロケットの複合動力案が検討されたが、実用化を危ぶんだ軍が本機をデルタ翼の実証試験機に用途変更したため、機体外形と動力はエキセントリックな当初案より一般的化されると同時に、原価低減目的で構成部品も既存の他機からの寄せ集めになった。
XP92 の1号機は1947年にロールアウトした。機体は、後退角60度のデルタ翼を中翼配置で有し、垂直尾翼もデルタ形状であった。インテイクは機首にあり、武装は有していない。予定エンジンのウェスティングハウス J30では推力不足が懸念されたため、進空予定を中断して大径のアリソン J33-A21(推力 2,087kg)搭載用に胴体を改造する事になり、名称も1948年6月に XF-92A に変更された。
同年4月1日からミューロック乾湖で滑走試験を開始、9月18日に初飛行した。飛行特性・性能共に不良で改修が重ねられたものの、ダイブ時ですら音速突破を果たせなかったため、1951年にはアフターバーナー付の J33-A-29(推力 3,720kg)に換装し、細部を更に改修した結果、限界テストでただ1度のみ音速を超えた。テストパイロットとしてチャック・イェーガーやアルバート・スコット・クロスフィールドらが搭乗している。
デルタ翼の実証試験という初期目的は一応果たし、引き続きリピッシュが主導したコンベア社(1953年以降ジェネラルダイナミクス傘下)の一連のデルタ翼機 F-102、F-106、B-58 を始め、他社のデルタ翼機にもデータが活用された。

2012年7月1日日曜日

F-100 スーパーセイバー(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-100 スーパーセイバー)

F-100はアメリカ合衆国のノースアメリカン社で開発された世界初の実用超音速戦闘機。愛称はスーパーセイバー(Super Sabre)。

F-100は、アメリカ空軍で1954年から1971年まで使われた世界初の実用超音速ジェット戦闘機である。愛称からもわかる通りF-86 セイバーに続く制空戦闘機として開発され、アメリカ戦闘機として初めて水平飛行で音速を超えることのできる戦闘機であった。しかし実際の運用面においては、戦闘爆撃機としての運用が多い機体であった。

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※ホビーマスター製の完成品模型は管理人お薦めです。

F-82 ツインムスタング(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-82 ツインムスタング)

F-82は、アメリカ軍の長距離戦闘機・夜間戦闘機。製造はノースアメリカン社。愛称はツインムスタング(Twin Mustang)、初飛行は1945年。開発時はP-82の名称であったが、1947年にF-82に改称されている。

第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空軍は、爆撃機護衛用の長距離戦闘機を求めていた。当時、長距離護衛戦闘機の主力だったP-38、P-47、P-51などは単座機であり、ドイツ・日本本土爆撃などの長距離任務の際、パイロットは長時間に渡り一人で操縦し続けなければならなかった。そのため、パイロットの負担が少なくて済むように、交代で操縦できる複座戦闘機の開発が要求された。これを受けノースアメリカン社が開発したP-82は、2機のP-51を連結した双胴式戦闘機(社内モデル呼称NA-120)を開発することとなった。陸軍航空隊から3機の試作機発注が1944年1月に行われ、3月には500機の発注が行われた。その後、日本無条件降伏に伴い発注は20機に激減。さらに一転し、軍は100機注文を出す。
基本的にはP-51Fの主翼および水平尾翼どうしを連結し、レシプロ双発エンジン、コックピットは二ヶ所としたものである。ただし、全長が伸びており、胴体部の変更は大きい。プロペラは左右で逆回転であり、トルクを打ち消すようになっている。エンジンは同じものであるが、左側のエンジンは逆回転用にギアが一つ多くつけられている。武装の機銃6丁は内翼にのみ装備されている。また、パイロットが交代で操縦することができる。機体が大型になったものの、P-51に劣らぬ性能を発揮した。
試作機・XP-82は1944年4月15日に初飛行している。護衛戦闘機として第二次世界大戦に参加することはなかった。部隊配備は戦後であり、長距離戦闘機型P-82Eは1948年より部隊配備されている。このほか、旧式化したP-61戦闘機の後継として、夜間戦闘機型が1948年から配備される事になった。結果的にはジェット戦闘機が長距離戦闘や夜間(全天候)戦闘を行えるようになるまでのギャップを埋めたレシプロ戦闘機として、朝鮮戦争でB-29の護衛でジェット戦闘機F-86が登場するまで活躍する事となった。
夜間戦闘機型のF-82では、右側の操縦席をレーダー手席に改造し、中央部主翼の下に増槽型のレーダーユニットを搭載した。このユニットは胴体着陸時などに投下可能なよう、取り外し式であった為、高G機動時などで外れてしまう事があった。