2012年12月28日金曜日

テジャス(インド空軍 戦闘機)

情報元:Wikipedia(テジャス)

テジャス(Tejas)は、アメリカ等の技術協力を受け開発されているインドの国産戦闘機である。LCA(Light Combat Aircraft、軽戦闘機)の名称も知られている。1980年代から開発を開始しており、2011年に実用化した。MiG-21の代替を予定しているが、かつて1998年の核実験に対する米国の経済制裁を受けたことや技術不足などの要因が重なり開発が難航している。
なお、「テジャス」とはサンスクリットで「火」を意味し、「光り輝く」との意味も備える。

インドは1960年代にマルートを開発して以降国産ジェット戦闘機の開発をしてこなかったが、1985年に当時のインド首相ラジーヴ・ガンディーによりアメリカと協力して新型の戦闘機を開発することが発表された。開発計画はLCA(Light Combat Aircraft)と命名された。搭載エンジンは初期型に米国GE(現在は傘下のGE・アビエーション)製F404ターボファンエンジン、後期型に国防研究開発機構(Defence Research and Development Organisation、DRDO)傘下のガスタービン研究機関(Gas Turbine Research Establishment、GTRE)が開発する国産のGTX-35VS型「カヴェリ(Kaveri)」エンジンの搭載を予定している。インド海軍向けの艦上機型の開発も行われており、こちらは2008年の初飛行を目指している。
開発参加企業・組織には、インドのHAL(Hindustan Aeronautics Limited、ヒンドゥスタン・エアロノーティクス)、インド航空開発庁(Aeronautical Development Agency、ADA)、国防研究開発機構を始めとし、さらに米国のロッキード・マーティン、ゼネラル・エレクトリック、フランスのスネクマなどが加わっている。
元々1993年の初飛行を目指して開発されていたが、当初56億ルピーと予定していた開発費が250億ルピーに増大した上に、計画がかなり遅延した事からMiG-21bisの近代化に213億5000万ルピーを使わざるを得なくなってしまった。
さらに1998年の核実験の制裁としてアメリカがLCAの開発から撤退し、アメリカから導入予定だった機体制御システムや各種主要コンポーネントの輸入が停止され、LCAに搭載するためのカヴェリエンジンの技術支援にきていたGEの社員も帰国した事でさらに計画に遅延が出ることになった。
前述の国防研究開発機構の一部の関係筋によれば、「核実験さえなければ、初飛行は1998年12月に成功していただろう」とも言われていたが、結局初飛行に成功したのは2001年であった。
2001年以降の対テロ戦争でインドの経済制裁が解除された事により、アメリカのGE社はF404エンジンを試作機用に8基(F404-GE-F2J3)、量産機用に41基(F404-GE-IN20)供与している。当初量産分の2個飛行部隊分の機体にはF404を搭載し、それ以降の機体には完成し次第国産のカヴェリエンジンを搭載する予定である。2007年度中に28機のLCAを生産することが決定しており、エンジンの調達数からも40機前後の生産は確定的だと思われる。
インド空軍はMiG-21の後継として最終的に200機前後のLCAを調達する予定であり、2009年から2010年にかけて南部のタミル・ナードゥ州にLCAの飛行部隊を配備し始めるとの見方が出ている。
しかしカヴェリエンジンの開発は未だ難航しており、インド空軍はLCAが予定通りのスケジュールで完成するかどうかについて尚疑いを持っている。この事から今後大幅に調達数を減らすことも考えられる。
また、カヴェリエンジン調達までの繋ぎにユーロジェット・ターボ製EJ200及びGE製F414の調達を検討、GEがユーロジェットより安い価格を提示したため99基のF414の調達が決定した。

2012年12月27日木曜日

F-8 クルセイダー(アメリカ海軍・海兵隊)

情報元:Wikipedia(F-8 クルセイダー)

F-8とはアメリカ合衆国の航空機メーカー、チャンスボート社が開発し、アメリカ海軍とアメリカ海兵隊を中心にフランス海軍とフィリピン空軍で使用された艦上戦闘機である。愛称はクルセイダー(Crusader、十字軍の戦士)。 開発当初の機種名はF8Uであるが、1962年の機種名整理で命名規則が変更されたため、F-8となった。

開発は1952年にアメリカ海軍が超音速制空戦闘機を要求したことから始まった。この要求に応じたチャンスボート社は数々の新機軸を盛り込んだ機体を開発した。試作初号機XF8U-1は1955年3月25日初飛行および超音速飛行に成功し高性能を示したため、海軍に採用されることとなった。直ちに量産が開始され、生産型F8U-1は1955年9月に初飛行している。艦上機としては世界初の超音速戦闘機である。
F-8は当時の陸上機をも凌ぐ高性能を誇り、また極めて信頼性が高く、扱いやすかった。例えば同じエンジンを搭載する空軍のF-100戦闘機が最高速度マッハ1.3だったのに対し、本機はマッハ1.7に達した。これはインテークの上から前方に突き出した機首コーンが偶然にもショックコーンの役目を果たし、エンジンの性能を最大限に引き出した事による。B型以降は機首コーンはレーダーを搭載したレーダードームとなり大型化しているが、はからずもショックコーンとしての能力も向上している。
特徴としては極めて視界に優れている事が挙げられる。コックピットは視界を確保するため胴体の先端に配置された。インテークも機首下面にあり視界を妨げないようにしている。また離着艦の際の機首上げ角を抑えるため、前桁に取り付けられた油圧アクチュエータと後桁のピボットによって、高翼配置の主翼の仰角を動かす唯一のシステムを持ち、運用時の安全性を大幅に向上させた。これは視界不良に悩まされたチャンスボート社の前作F7Uカットラスの反省があったためだが、むしろ過剰装備だったと評されることもある(またカットラスは飛行性能を追求し新機軸を盛り込み過ぎ離着艦性能が極端に悪く、前述の視界の悪さとあいまって着艦時の事故が多発し、同様の問題を抱えた僚機F3Hディーモンと共に「未亡人製造機」と称された)。なお後に本機を母体に開発された亜音速艦上攻撃機A-7 コルセアIIでは、主翼ハードポイント(重量強化点、パイロンを取り付けられる場所)追加のため可変仰角装置は省かれている。
1957年から部隊配備が開始され1965年までに各形式合わせて1,259機生産された。のちにアメリカ海軍の空母機動部隊の運用方針が変化し、艦載戦闘機にも多用途性が求められるようになった。ジェット戦闘機の実用化以降のアメリカ海軍は、ジェット戦闘機を純戦闘機として、レシプロ戦闘機を戦闘爆撃機として運用しており、チャンスボート社は1950年代までF4U戦闘機の生産を続行していたのだが、さすがにレシプロ機は性能的に限界に達し、ジェット戦闘機に戦闘爆撃機としての能力が要求されるようになったのである。この趨勢の中、同時期に採用されたF11F タイガーはこの要求に対応出来ずに短命に終わってしまったのとは対照的に、F-8は一定の汎用性も兼ね備えていたため大量に生産された。また離着艦能力に優れていた事により、アメリカに比べて小型の空母しか保有しないフランス海軍においても採用された。

部隊配備は1958年3月から開始された。その後、F-8はベトナム戦争に投入された。アメリカ海軍は他に最新のF-4 ファントムIIを投入していたが、ミサイル万能論の影響で航空機関砲を搭載せず空対空ミサイルのみに頼り、爆撃能力を重視し機動性をある程度犠牲にしていた。こうした中、軽快な運動性と4丁の20mm機関砲を搭載していたF-8は「最後のガンファイター」と呼ばれ、多数のMiG-17等の敵機を撃墜し、一時期はF-4の撃墜数を上回ったこともあった。そのことから「ミグ・バスター」とも呼ばれた。ただし、機銃のみによる撃墜は無かった(2機をミサイル、ロケット弾との併用で撃墜。なお、F-8に搭載されたコルトMk.12は信頼性に乏しかったともされる)。
ベトナム戦争全体を通し、アメリカ空海軍海兵隊機種で最高のキルレシオ(撃墜対被撃墜比率)、8:1を持つ。また撃墜数はF-4の半分(18機)であったものの、作戦および空中戦への延べ参加機数は遥かに少なかったことを勘案すると、大変効果的に敵戦闘機を抑えたと見ることができる。
ただし本機がF-4と共に1960年代のアメリカ海軍の主力たり得たのは、本機が、第二次世界大戦当時から使い続けられていたエセックス級航空母艦において運用可能(F-4は運用不可能)であったからである。ベトナム戦争が無く、エセックス級空母がもっと早くに退役していたならば、本機も早々に退役していたものと想像される。 ベトナム戦争の終結後、エセックス級空母の退役により戦闘機型のF-8は1976年までに現役を退いたが、偵察型のRF-8Gについては、RA-5Cの退役~F-14偵察兼務型の配備までのつなぎ役としてその後も長期間配備され、アメリカ海軍から最後の機体が退役したのは1987年であった。最後までF-8を第一線に配備し使用していたフランス海軍のクレマンソー級航空母艦に搭載されていた機体も、1997年の「クレマンソー」退役、2000年の「フォッシュ」退役(ブラジル海軍に売却)に伴い退役した。
外国での採用は他に、フィリピン空軍がアメリカ海軍からの退役した機体を修繕して用いていた。防空任務の他に、機銃・通常爆弾・ロケット弾による対地攻撃にも従事していた。しかし、エドゥサ革命の混乱にともなう禁輸措置やスペアパーツ不足(晩年はヴォート社の在庫自体が底をついていた。革命後、同社による現地でのオーバーホールにおいては現地で調達したベニヤ板とアルミ箔を用いて木製の部品を作り、損耗した金属製の純正部品の代用とするなど苦肉の策がとられた)、資金不足がたたって稼働率は次第に低下。1991年のピナトゥボ山噴火によりダメージを受けたのを機に廃棄された。

2012年12月25日火曜日

F-11 タイガー(ブルーエンジェルス)

情報元:Wikipedia(ブルーエンジェルス)

ブルーエンジェルス (Blue Angels)はアメリカ海軍所属のアクロバット飛行隊。現在の本拠地はフロリダ州のペンサコーラ海軍航空隊基地。通称「ブルーズ (Blues)」。

昔から、アメリカ空軍のアクロバット飛行チーム「サンダーバーズ」とライバル関係にあり、共に世界でも高レベルのアクロバット飛行能力を誇る。

情報元:Wikipedia(F-11 タイガー)

F-11はグラマン社が製造した1950年代後半のアメリカ海軍の艦上戦闘機である。愛称はタイガー(Tiger)。1962年に軍用機の呼称が陸海空軍で統一される前の機種記号はF11Fであった。

F9F-6 クーガーは、優秀な戦闘機であったが、水平飛行で音速突破ができないなど速度性能には問題があった。そのため、1952年4月にF9F-8として本格的な超音速戦闘機がアメリカ海軍より発注された。なお、1952年6月にはチャンスボートF8Uの契約も行われていることから、F8U開発の保険的な意味合いも大きかった。機体がF9Fとは全く異なるが、F9F-8の名称で開発開始されたのは、予算対策の目的に既存機の改修の形をとったためである。なお、開発途中でF9F-9に名称が変更されている。F9F-9は1954年7月に初飛行し、1955年4月にF11F-1の名称が与えられた。
チャンスボートF8U、マクダネルF4Hと海軍の主力機の座を争ったが、元々は軽量戦闘機であったはずが、開発の過程で改良を重ねるうちに重量が増加してしまい、それと非力なエンジン(ライトJ65-W-18 推力 3,380Kg)の組み合わせは、速度(1,210km/h)・加速・上昇性能において劣っていた。加えて全天候性能や多用途性能にも欠けていた。そのため生産数は196機に止まった。
実戦部隊への配備も1957年から1961年までと短い。ただし、離着艦性能、操縦性、運動性においては非常に優れていたので、アメリカ海軍の曲技飛行隊「ブルーエンジェルス」の使用機になった。初期生産型と機首部分を延長した後期生産型がある。
F11F-1は1962年のアメリカ三軍の軍用機呼称の統一に伴ってF-11Aと改称された。

前述の通り、F11Fは機体重量に比べてエンジンが非力だったのが弱点であった。これを改良し、エンジンをより強力なGE J-79(推力 4355Kg)に変えた性能向上型F11F-1Fスーパータイガーが開発された。最高速度 2,253Km/hを記録、さらには23,449mの世界高度記録を樹立したが、反面エンジンの大型化により燃料消費が増大したことで航続距離が減少し、さらに翼面荷重も高くなったことから離着陸性能も悪化し、海軍の興味をひかず採用にはいたらなかった。F11F-1Fは試作機2機の生産にとどまった。F11F-1Fは1962年にF-11Bと改称された。
そこでグラマンは、NATOや、F-86の後継戦闘機を選定していた日本の航空自衛隊に、販売代理店の伊藤忠商事とともに売込をはかった。日本向の機体はグラマンの社内名でG.98J-11と呼ばれ、F11F-1Fの2号機を改造したデモンストレーターが製作され(※G-98そのものではない)、その操縦性と安全性をセールスポイントとして、日本では採用が一旦内定した。しかし、だが、G-98の内定に対して「汚職の疑いがある」また「設計図だけの幽霊戦闘機」(デモンストレーターは製作されたが、実機はまだ製作されていなかった)との批判が起こり、関係者からの事情聴取や証人喚問にまで発展し、白紙化した(第1次FX問題)。
前述の通りF11F-1Fスーパータイガーはエンジンの換装によりさまざまな問題が生じたが、グラマンはこれを改良して自衛隊の要求に合わせるとしていた。しかしその場合の開発資金は当然日本一国で負担しなければならず、対立候補であったロッキードF-104と比べると、生産も運用も困難となることがすでに1957年の調査団の報告書でも指摘されていた。
源田実航空幕僚長を団長とする官民合同の調査団が再び訪米し、二ヵ月半にわたる調査の結果提出された報告書に基づく再選定の結果、結局F-104に敗れる事となった。

2012年12月24日月曜日

La-15(ソビエト連邦戦闘機)

情報元:Wikipedia(La-15)

La-15(ロシア語:Ла-15ラー・ピトナーッツァチ)は、ソ連のラヴォーチキン設計局で開発されたジェット戦闘機である。初飛行は1948年。DoDが割り当てたコードネームはType 21。

La-15は同時期に開発されたMiG-15によく似た外観をしているが、MiG-15がダクトの中央を主翼が突き抜けるという中翼構造を採っているのに対し、本機は高翼構造にすることによって後退翼における強度問題を解決している。La-15は航空機「174」、航空機「174D」として開発されたため、試作機はLa-174などとも呼ばれている。また、複座練習機型は航空機「180」として開発された。エンジンはMiG-15が当時ソ連で最も強力であったロールス・ロイス・ニーンの国産型であるRD-45ターボジェットエンジンを採用したのに対し、La-15は小型で非力なダーウェントの国産型RD-500を選択させられた。そのためLa-15は十分な性能が得られずMiG-15に主生産機の座を譲り渡すことになったとも言われるが、エンジン選択の段階からして恐らくは政治的理由が絡んでいたと思われる。結果La-15は迎撃戦闘機として数百機が生産されたにとどめられた。第二次世界大戦時以来ソ連空軍の主力戦闘機を生産し続けてきたラヴォーチキン設計局の実用機も本機が最後となり、1950年代以降、特に戦闘機におけるミコヤン・グレヴィッチ設計局の独占的構造が確立されていった。

2012年12月7日金曜日

ビッカース ウェリントン(イギリス空軍 爆撃機)

情報元:Wikipedia(ビッカース ウェリントン)

ビッカース ウェリントン(Vickers Wellington)は、第二次世界大戦初期のイギリス空軍で使用されたヴィッカース社製の爆撃機である。ヴィッカース社独特の大圏構造の機体を持つ爆撃機で、第二次世界大戦初期のイギリス空軍において爆撃機部隊の柱として活躍し、「ウィンピー」(Wimpy)の愛称で親しまれた。1943年秋以降は爆撃任務から外され、沿岸哨戒や輸送任務で使用された。

本機の開発は、イギリス空軍から出された新型爆撃機の仕様に従って1932年9月から開始された。原型機は1936年6月に初飛行しその年の航空ショーで最新鋭機として紹介されたが、翌年墜落事故を起こして失われた。しかし空軍は、この機体の生産型を180機発注し、量産1号機MK.1は1937年12月に初飛行した。
ウェリントンは、角張った胴体を持つ双発機で、胴体、翼等の主要部分はヴィッカース社独特の大圏構造で作られていた。これは、金属製の細い素材を籠状に編み、その上から羽布を張った構造で、頑丈かつ軽量で多少の敵からの攻撃でも大きな破壊から免れることが出来るという利点があった。反面、製造工程が複雑になることや、気密性に劣るため高高度での活動には不向きである等の欠点もあった。最初の量産型は、機首と機尾に動力式の連装式の銃座を持ち、爆弾は腹部の爆弾倉に2000kg搭載できた。エンジンは、初期の型では1000hpのブリストル ペガサスだったが、その後ロールス・ロイス マーリン10やブリストル ハーキュリーズ3に強化されている。 1938年から部隊配属が開始され、第二次世界大戦開戦時には6個の飛行隊に配備されていた。1939年9月にブルンスビュッテル(Brunsbüttel)に爆撃を行ったのが本機の初陣で、その後暫くは昼間爆撃に用いられた。しかし、同年12月の作戦において作戦参加機の半分以上を喪失もしくは大破させられるという損害を被ったことをきっかけにして、本機は夜間爆撃任務に回されることになった。
夜間爆撃機としては本機はよく働き、大戦前半にドイツ、イタリアの工業地帯爆撃に活躍した他、中東、北アフリカ、ギリシャ方面でも活動した。また、1942年にはインドにも派遣され、イギリスの極東における最初の長距離爆撃機となった。
大戦後半になると爆撃機として使用するには性能的には苦しくなり、1943年秋以降は沿岸航空隊における哨戒任務や輸送、爆撃練習などで利用されるようになった。機体の容量に余裕があり、扱いやすく、長時間飛行できる機体だったため、これらの任務のための専用型の生産が続けられ、最後の生産機が生産ラインを出たのは大戦終結後の1945年10月だった。

2012年12月6日木曜日

MiG-27(ソビエト連邦空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(MiG-27)

MiG-27(ミグ27;ロシア語:МиГ-27ミーグ・ドヴァーッツァチ・スィェーミ)は、ソ連のミグ設計局の開発した戦闘爆撃機である。MiG-23前線戦闘機のソ連国内向け戦闘爆撃機型として製作された。1980年代、スホーイ設計局のSu-17M3/4とともにソ連空軍戦闘爆撃機部隊の中核を担った。北大西洋条約機構(NATO)の使用するNATOコードネームはフロッガー (Flogger)。 なお、このページで扱うMiG-27シリーズはMiG-23の戦闘爆撃機型であり、その輸出型はMiG-23BNと呼ばれている。このように、MiG-23シリーズとMiG-27シリーズは併せて考えるべきである。MiG-23/27シリーズの全体についてはMiG-23 (航空機)を参照のこと。

1960年代、ソ連では1950年代より開発してきた大型のSu-7BKL戦闘爆撃機が空軍の対地攻撃力の中核となっていた。また、小型のMiG-17F前線戦闘機やMiG-21前線戦闘機シリーズなども簡易な戦闘爆撃機として運用されていた。しかしながら、これらの機体はいずれも充分な能力を有しているとは言えず、1960年代末には新たな戦闘爆撃機に対する要求が各設計局に出された。スホーイ設計局では従来のSu-7シリーズを可変翼化したSu-17シリーズを開発し、それまでの領分を確保することに成功した。一方、MiG-15以降、小型の前線戦闘機の開発が領分となっていたミグ設計局では、以後の可能性を拡げるため、軍の要求に対し当時開発中であったMiG-23S前線戦闘機を改設計し、大型のSu-17に匹敵する戦闘爆撃機を開発することとした。

攻撃機型MiG-23の開発
MiG-23Sの戦闘爆撃機化は、まずエンジンをS・K・トゥマーンスキイ設計局のR-27F2M-300からより出力の大きなA・M・リューリカ会社のサトゥールンAL-21F-3に換装することから始められた。この機体はMiG-23B(МиГ-23Бミーク23ベー)または32-24と呼ばれ、機首のレーダーを撤去し代りにソーコル23S照準システムやフォーンレーザー測距儀などの対地攻撃用の新システムを装備した。初飛行は1971年に行われた。生産はモスクワ機械製作工場(MMZ)「ズナーミャ・トルダー(労働の旗)」で行われ、1972年から1973年の間に24機が製作された。

MiG-27とMiG-23BNの開発
しかしながら、MiG-23Bは機体強度等に致命的な欠陥が多くあったMiG-23Sを基に製作されていたためそれ同様に欠陥があり、戦闘機型MiG-23の改良を待ってすぐに新しい機体の設計に取り掛かる必要があった。その結果開発されたのがMiG-23BM(МиГ-23БМミーク23ベーエーヌ)または32-25と呼ばれる機体で、1972年に初飛行を行った。この機体は戦闘機型の改良型であるMiG-23M同様、前縁に面積を増すため張り出しを設けてドッグトゥースを形成させた主翼を有し、アフターバーナーを簡略化したトゥマーンスキイR-29B-300エンジンを搭載した。また、空気取り入れ口のランプも固定化されており、これらの改装により機体構造が簡略化し、軽量化されていた。この機体はMiG-27(МиГ-27)として1973年より生産に入り、1977年までに360機がイルクーツク航空機工場で製作された。MiG-23BMには前線偵察機型も開発されておりMiG-23R(МиГ-23Рミーク23エール)と呼ばれたが、結局前線偵察機としてはSu-17M3R/4Rが使用されることとなり、MiG-23Rは量産されなかった。また、空気取り入れ口を従来の可動式としたままの32-24B(32-24Б)はMiG-23BN(МиГ-23БНミーク23ベーエーヌ)としてMMZ「ズナーミャ・トゥルダー」工場で生産に入り、輸出向けに多数が製作された。なお、MiG-23BNに対しては1998年にMiG-23B-98(МиГ-23Б-98)近代化改修規格が提示されている。

MiG-27の発展
MiG-23BMの発展型として開発された32-26は、MiG-23BK(МиГ-23БКミーク23ベーカー)として1974年12月30日に初飛行を行った。この機体は1976年よりイルクーツク航空機工場で生産が始められ、1982年までに197機が製作された。部隊配備後の1980年、この機体に対しMiG-27K(МиГ-27Кミーク27カー)と名称を改めるよう指示が出された。また、1976年から1977年の間にMiG-27R(МиГ-27Рミーク27エール)または32-35と呼ばれる偵察機型が開発された。この機体は電波探知装置のコンテナーを機体下に搭載するものであったが、結局実際に生産されたものはなかった。
次に生産されたのはMiG-27M(МиГ-27Мミーク27エーム)または32-27と呼ばれた機体で、これはMiG-27Kが高価過ぎたことから開発された簡略型であった。初飛行は1976年に行われ、ウラーン・ウデー航空機工場で1978年から1983年の間に162機が生産された。また、合計304機の32-25も1983年から1987年の間に32-27規格に改修され、MiG-27D(МиГ-27Дミーク27デー)と称された。
1986年に初飛行したMiG-27ML(МиГ-27МЛミーク27エームエール)または32-29(32-29Л)と称される機体はインド向けに開発されたMiG-27の輸出型で、インドではMiG-27Mバハドゥール(MiG-27M Bahadur)と呼んで使用している。また、MiG-27L(МиГ-27Лミーク27エール)と書かれることもある。インドでは他にMiG-23BNも併用しており、これらは第三次印パ戦争でも使用されたSu-7BMKの代替である。インドでは今後もMiG-27を運用する方向で、2008年にはロシアと共同でエンジンをAL-31Fに換装した改修型を完成している。

2012年12月4日火曜日

MiG-23(ソビエト連邦空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(MiG-23)

MiG-23(ミグ23;ロシア語:МиГ-23ミーグ・ドヴァーッツァチ・トリー)は、ソ連のミグ設計局が開発した戦闘機。MiG-21の後継機となり、アルチョム・ミコヤンが最期に手がけた機体であった。北大西洋条約機構(NATO)の使用するNATOコードネームはフロッガー (Flogger)。
1967年4月3日(23-01のもので、この機は可変翼機ではない)に初飛行した。また、MiG-27(МиГ-27)はMiG-23の発展型で、ソ連国内向けの戦闘爆撃機として開発された。

1960年代にミグとスホーイ両設計局がSTOL用リフトエンジン搭載有尾翼デルタ翼機と可変翼機の製作を指示されたのが始まりである(ミグは1960年代初めから可変翼機の研究をしていたが、当時は技術的に困難であった)。ミグは新型機を製作するにあたり、リフトエンジン2基を搭載する実験機23-31(MiG-21PD)を1966年に製作し、この機体のデータを基にしたSTOL機23-01(MiG-23PD)と、可変翼の23-11(MiG-23)を同年に製作した。翌年の実験で23-01が機体重量と空間の限界や整備面でこの方式が実用的でないことが判ると、23-11が採用された。
可変翼は、アメリカ合衆国の開発したF-111戦闘攻撃機(戦闘爆撃機と呼ばれることもある)やF-14戦闘機、ヨーロッパで共同開発されたトーネード攻撃機など1960年代後半から1970年代前半の軍用機に共通する特徴で、このような航空機は可変翼機と呼ばれている。この時期の軍用機は敵に滑走路を破壊された場合の対処方法を重要視して設計されており、離着陸距離を短縮できる可変翼機や滑走路を必要としないVTOL、STOL機に大きな関心が集まっていた。可変翼は、高速で飛行する際は翼を後退させて抵抗を減らし、離着陸や低速飛行の際は前に広げて揚力を大きくすることができた。MiG-23も可変後退翼の採用によって、離着陸距離を短縮している。 ただしF-14の可変後退翼はさらに進歩しており、後退角や後縁フラップを自動コントロールにして空中格闘戦能力が大幅に向上していた。一方後退角を手動で制御するMiG-23の前期型(MiG-23Mなど)までは格闘戦能力の向上効果は無かった。MiG-23の可変翼は、油圧で後退角度(16度から72度)が変わるものであったが、戦闘時には主翼を45度の位置に固定させるようになっていた。しかし後期型では改善され、戦闘時の後退角度はMiG-23MLDでは33度に変更され、後退角度制御こそ手動のままであるが、前縁フラップは自動制御になり、格闘性能を向上させている。
MiG-23は本来、前線の制空権を確保するための前線戦闘機であるため、空中戦のみならずある程度の対地攻撃能力も持つよう設計されていた。MiG-23ML等後期型では種別は多用途戦闘機に変更されており、アンゴラではMiG-23MLAの対地攻撃能力に対して高い評価が出されている。また、特に対地攻撃を重視した派生型もあり、その内ソ連空軍向けに開発された機体はMiG-27と呼ばれている。一方その輸出向けの機体の名称はMiG-23のままであり、名称の変更の有無はソ連内の予算獲得問題の関係(名称が違うと予算が付きにくい)であったと言われている。