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2012年9月27日木曜日

ブリストル ボーファイター(イギリス空軍重戦闘機)

情報元:Wikipedia(ブリストル ボーファイター)

ブリストル ボーファイター (Bristol Beaufighter) は、第二次世界大戦でイギリス空軍が使用した双発の重戦闘機 (Heavy fighter)。開発はブリストル・エアロプレーン社。イギリス空軍の他、アメリカ陸軍、オーストラリア空軍でも使用されている。
本来は、長距離を飛行できる昼間戦闘機として開発されたが性能不足であったため、夜間戦闘機、戦闘雷撃機に転用され、終戦まで活躍した。

ボーファイターの起源は、同じブリストル社が開発した双発雷撃機ブリストル ボーフォートと全く別の試作戦闘機、ブリストル タイプ 151にまで遡る。
ボーフォートを元にした計画はトーラスエンジンと20 mm機関砲を装備した重武装の昼間爆撃機を目指したものであったが、関係者が死去したことにより計画は中断されてしまった。
タイプ151の計画は、当初、ハーキュリーズエンジン装備の単発戦闘機であったが、後に空軍の仕様書F37/35に沿った、アクイラエンジン装備の双発戦闘機に改められ、タイプ153、およびタイプ153Aと呼ばれた。しかし、この計画はウェストランド ホワールウィンドに敗れ、不採用となった。
その1年後、ブリストル社からの提案という形で、新たな双発戦闘機の仕様書が空軍に提出されるが、空軍の要求と合わなかったため、いくつかの仕様が検討され、結局、ボーフォートの機体を流用した、タイプ156が選択された。
この仕様は、ハーキュリースエンジンを2基、機首下にイスパノ Mk.II 20mm機関砲4門を装備しており、尾翼、外翼、降着装置をボーフォートと共通しているため、設計期間が短くて済み、生産転換も容易である点が特に評価された。
試作1号機は1939年7月に行われたが、性能は思わしくなく、各種改修を行っても最大速度は期待された539 km/hを下回る497 km/hしか出なかったが、機動性は概ね満足の行くものに仕上がっており、1940年7月、制式採用され、ごく少数機が、バトル・オブ・ブリテンの昼間迎撃にも参加している。
夜間戦闘機としての運用もほぼ同時に始まり、レーダーを搭載したタイプが、1941年ごろから、夜間戦闘機の主力として大きな戦果をあげている。
対艦攻撃機としてのボーファイターは、1942年11月に最初の部隊が編成されている。索敵、機銃掃射、爆撃、雷撃等、艦船攻撃用の複数の任務を1機種でまかなえる雷撃型ボーファイターの登場は、混成対艦攻撃の嚆矢となった。

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2012年9月21日金曜日

ホーカー タイフーン(イギリス空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(ホーカー タイフーン)

ホーカー タイフーン (Hawker Typhoon) はイギリス空軍 (RAF) の戦闘機。1941年からホーカー・アビエーション社で生産された。邀撃戦闘機であったホーカー ハリケーンの代替が目的だったが、性能面に問題があった。しかし、第二次世界大戦で最も成功した戦闘爆撃機のひとつと数えられるまで発展した。

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2012年9月7日金曜日

ホーカー ハリケーン(イギリス空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(ホーカー ハリケーン)

ホーカー ハリケーン (Hawker Hurricane) は、イギリスのホーカー・エアクラフト社によって1930年代に設計されたレシプロ単発・単座戦闘機である。第二次世界大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用され、バトル・オブ・ブリテンなどで広く活躍した。

1930年の初めに、イギリス空軍の爆撃部隊強化に貢献したトレンチャード卿が退役し、新たにイギリス空軍司令官に着任したジョーフリー・サーモンド (Geoffrey Salmond) 大将は防空戦闘機の交代を計画した。この頃のイギリス空軍主力戦闘機は最高速度が約360km/hで武装は7.7mm機関銃2丁というホーカー フューリーであった。航空省は仕様書F.7/30を作成し、全金属製、最高速度400km/h、7.69mm機関銃4丁という要求をメーカー側に掲示した。しかし、折りしも世界恐慌の真っ只中で軍事予算が大幅に削られた影響を受けていたこともあって、航空省が選定することになったのは複葉のグロスター グラディエーターであった。
1934年、財政に余裕があったロールス・ロイス社がPV.12 エンジンの開発に成功し、これが契機となってホーカー社はシドニー・カム (Sidney Camm) 技師の主導で単葉単座戦闘機の開発に乗り出した。1935年までに設計案が提出され、航空省はホーカー社の設計案向けに仕様F.36/34を作成し、同年の1935年2月21日に試作機の製作も許可した。

製作された試作機は1935年11月6日に初飛行を行った。同月にハリケーンと名づけられた、この機は翼や胴体には木材や帆布を多用し、エンジンやコクピットは鋼管をアルミニウム合金で覆ったものであり、ハリケーンの4か月後に登場するスーパーマリン スピットファイアの全金属製、モノコック構造を採用した最新戦闘機とは対照的で、前時代的といわざるを得ない旧式な構造だった。これはホーカー社の製造技術はもちろん、全金属製に生産ラインを対応させるのは非常に困難であったからである。旧式な設計ではあったものの、軽くて頑丈でもあり、その余裕のある構造から戦局に伴う改良への適性、被弾時の機体や乗員のサバイバビリティにも優れていた。

最初の生産型、ハリケーン Mk. Iが1937年10月12日に初飛行を実施し、イギリス空軍は保守的でありながら複葉戦闘機から大きく向上したと、Mk. Iを1,000機発注した。予想通り、ハリケーン Mk. Iの量産は順調に進んだ。
当時、新鋭のスピットファイアはスムーズに生産を始められるかわからない状況だったが、ハリケーンの生産法は熟知されており扱いやすいものであった。運用部隊にとっても同じことで、それまでもハリケーンのような木金混合製の航空機に搭乗し、また整備をしてきたからだった。ハリケーン Mk. Iは1,030 馬力 (768 kW) のロールス・ロイス マーリンエンジン Mk. IIまたはMk. IIIエンジンを搭載し、8丁のブローニング7.7mm機関銃で武装していた。装甲や自己閉塞機能のある燃料タンクは備えておらず、帆布張りの主翼に木製固定ピッチのプロペラというシンプルなもので、試作機から変更されていたのは、キャノピー(風防)と冷却装置の強化、主脚の小改良であった。
こういった構造を解決するため、Mk. Iの主翼を金属製に変更し、プロペラ・スピナーの延長、プロペラの3翅化といった後期型のハリケーン Mk. IA シリーズ2が同年に開発された。プロペラの可変ピッチへの変更により、飛行性能が若干向上した。なお、最初のMk. Iは後にMk. IA シリーズ1と呼ばれた。

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2012年8月17日金曜日

ウェストランド ホワールウィンド(イギリス空軍双発戦闘機)

情報元:Wikipedia(ウェストランド ホワールウィンド)

ウェストランド ホワールウィンド (またはワールウィンド、実際の発音はこちらに近い。Westland Whirlwind)は第二次世界大戦で、イギリス空軍が使用した双発戦闘機である。

ホワールウィンドはイギリス空軍最初の双発単座戦闘機で、またウエストランド・エアクラフト社にとっても初めてイギリス空軍に採用された戦闘機でもあった。試作機の発注は1937年に出され、1号機は1938年10月に初飛行し、1939年1月には量産発注が行われた。しかし生産の遅れのため実機の部隊配備は1940年6月になってからだった。初期に引き渡された機体の内の1機は、夜間戦闘機としての実用テストを受けた。形状的には、双発機としてはかなり小型で(ハリケーンより50センチ長いだけ)胴体もかなり細身にまとめられ、鉛筆のように見えた。水冷でありながらラジエーターを機外に突出させず、胴体と両エンジンの間の中央翼内に取り込んで空気抵抗を抑えている。エンジンも小型かつ軽量のロールスロイス・ペリグリンエンジンを選定した。
しかし、この選定こそ本機のウィークポイントとなった。このエンジンは故障が多く、その整備のため部隊は大きな労力を割かれ機体の稼働率も低かった。また、着陸速度が速かったため使用できる飛行場が限られるなど、運用面で問題点が多い機体だった。加えて高高度性能に劣るため、イギリス空軍は迎撃戦闘機として本機は不適であると評価した。このため、バトル・オブ・ブリテンには本機は参加していない。
そこで、比較的長い航続距離と重武装を生かして長距離護衛戦闘機/戦闘爆撃機として使用することになり、1941年にはブレニム軽爆撃機の護衛任務を行ったりした。1942年からは、イギリス本土からドイツ占領地への爆撃任務に就いている。しかし、エンジンの不調が解消されぬまま、1942年2月に112機(及び原型機2機、生産済みのエンジン分の機体数)をもって本機の生産は終了し、1943年にはホーカー タイフーンに更新されて本機は前線から退いた。

2012年7月14日土曜日

スーパーマリン スピットファイア(イギリス空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(スーパーマリン スピットファイア)

スーパーマリン スピットファイア (Supermarine Spitfire) は、イギリスのスーパーマリン製単発レシプロ単座戦闘機である。第二次世界大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用された。バトル・オブ・ブリテンの際、イギリスをドイツ空軍の手より救った救国戦闘機として有名である。
楕円形の特徴的な主翼を持ち、翼断面は高速を発揮するために薄かった。主任設計技師であるR.J.ミッチェル(1937年死去)とジョセフ・スミスを始めとする彼の後継者たちによって設計されたスピットファイアは、パイロットたちからの支持は厚く、第二次世界大戦のさまざまな状況で活躍した。基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上(しかも排気量はグリフォン・エンジンまで変化していない)によって長期間にわたり活躍し、23,000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。

スーパーマリン社の主任設計技師であったR.J.ミッチェルは、空気抵抗を減らすために非常に流麗な流線形の機体をもった水上機を製作し、ネイピア ライオンやロールス・ロイス社製の強力なエンジンを搭載して、「シュナイダー・トロフィー・レース」で3度の優勝を成し遂げている。こうした先進的な設計は、戦闘機にも応用できる部分が大きかった。1931年、ミッチェルはイギリス空軍の仕様F7/30に合致する404 km/h以上の速力を持つ戦闘機の開発を始めた。
1934年2月に初飛行した最初の試作機は、風防がなく、空気抵抗の大きい固定脚をもつガルウイングの単葉機で、エンジンにはロールス・ロイス ゴスホークを搭載していた。このタイプ 224は、他社が設計したものと同じく、空軍の期待に添うものではなかった。ミッチェルは、レース機の経験を生かした設計に取り組み、より洗練された機体の設計を進めた。新しく設計されたタイプ 300には、主翼の小型化、主脚引き込み機構を搭載し、1934年7月にイギリス航空省へ提出されたが、採用には至らなかった。このタイプ 300に改良を進め、風防、酸素マスク、そしてより強力なロールス・ロイス社製のマーリンエンジンが搭載された。1934年11月には、スーパーマリンの親会社であるヴィッカース・アームストロングの支援を受け、タイプ 300の細かな設計が進められた。

1935年1月3日に航空省は正式に契約し、必要な装備の要求を掲載した仕様F10/35を発行した。武装は、ヴィッカース7.7 mm機関銃4丁であったが、1935年4月に航空省のラルフ・ソアビーによる推薦で、ブローニング7.7 mm機関銃8丁へ改められた。1936年3月5日に試作機(K5054)がイーストリー・エアロドローム(現サウサンプトン空港)において、初飛行を行った。その後、ジェフリー・クイールとジョージ・ピカリングらによる試験飛行で528 km/hを記録し、より鋭利なプロペラでは、557 km/hに達した。1936年6月3日には、航空省から310機のスピットファイアが発注された。
楕円翼の採用は生産性の悪化を招いたものの、捻り下げや戦闘機としては極めて低い翼厚比と併せて、大迎え角での誘導抵抗の減少、翼端失速の防止、翼内武装の充実、高速といった長所をスピットファイアに与えた。のちのスピットファイアの翼は、これよりももっと薄く、まったく異なった構造になっている。

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