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2012年11月16日金曜日

P-51H(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-51H マスタング)

P-51は、アメリカのノースアメリカンにより製造されたレシプロ単発単座戦闘機である。愛称はマスタング (Mustang)、あるいはムスタング。
第二次世界大戦の半ばにイギリスのロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載した後は、大きな航続力、高高度性能、運動性を与えられ、多くの戦功を残し、最高のレシプロ戦闘機とみなされている。

2012年11月14日水曜日

P-51 マスタング(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-51 マスタング)

P-51は、アメリカのノースアメリカンにより製造されたレシプロ単発単座戦闘機である。愛称はマスタング (Mustang)、あるいはムスタング。
第二次世界大戦の半ばにイギリスのロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載した後は、大きな航続力、高高度性能、運動性を与えられ、多くの戦功を残し、最高のレシプロ戦闘機とみなされている。

2012年10月23日火曜日

P-47 サンダーボルト(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-47 サンダーボルト)

P-47はアメリカのリパブリックにより製造されたレシプロ単発戦闘機である。愛称はサンダーボルト (Thunderbolt) 。 第二次世界大戦当時、P-51と並びアメリカ陸軍航空軍 (USAAF) の主力戦闘機として活躍した。Jug(ジャグ)の愛称でも知られる。空中戦にも強かったが、特に戦闘爆撃機(ヤーボ)として大いに活躍した。アメリカ以外の連合国の空軍でも使用された。

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2012年10月2日火曜日

P-40 ウォーホーク(アメリカ陸軍戦闘機)スライド動画

情報元:Wikipedia(P-40 ウォーホーク)

カーチス P-40 (Curtiss P-40) は第二次世界大戦期のアメリカ陸軍の戦闘機である。愛称はウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指す言葉) 。 性能的には平凡な機体であったが、実用性が高く常に量産体制が整っていた事もあり、他の戦闘機の補完的存在として広く使われた。 アメリカ陸軍のみならず連合国各国にも多数が供与され、イギリス軍ではC型までをトマホーク (Tomahawk:インディアンの用いた斧)、D型からをキティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所) の名称で装備した。

1938年、P-36の改造型として空冷エンジンを液冷のアリソンエンジンに換装しXP-40として初飛行した。この機体は、最大速度で原型のP-36よりも70kmも速かったので、直ちに量産命令が出てフランスに援助機として振り向ける事となった。しかし1940年のフランス敗戦により、援英機として、トマホークの名でイギリスに供与された。
日中戦争で日本軍の攻勢に苦しんでいた中華民国の蒋介石の妻で、国民党航空委員会秘書長でもあった宋美齢のアメリカ軍への呼びかけにより、中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられたクレア・リー・シェンノートにより、アメリカの「義勇兵」パイロットで編成されたAVG(フライング・タイガース)はP-40を129機装備し、国民党軍を支援するため中国で活動した。
日本軍の九七式戦闘機や九七式重爆撃機、少数の隼(加藤隼戦闘隊)を相手に一撃離脱戦法で戦い、1941年12月20日~翌年6月12日の解散までに「フライング・タイガース」側の記録では撃墜・撃破171機(日本側記録89機)の戦果をあげ、自らは80機を失ったとされた(この「撃墜記録」は、報奨金獲得のために水増しされているとの意見もあり、実際に日本側の被撃墜記録との乖離が激しい)。
また、1941年12月の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時にアメリカの植民地のフィリピンに配備されていた同機は、零式艦上戦闘機や一式戦闘機「隼」をはじめとする日本機の邀撃に当たったが空戦性能に遅れをとり劣勢に立たされた。
連合軍は後に武装の貧弱さと高度性能の改善をはかり、マーリンエンジン搭載に改良したF型を投入し、これを「ウォーホーク」と称した。P-40Fは高々度において、はるかによい性能を発揮した。しかし、あまり多数のマーリンエンジンは入手できなかった。というのは、よりすぐれたノースアメリカン P-51 マスタング にそのエンジンの優先権が与えられていたからである。
エンジンと武装の改良を繰り返し最終のQ型まで総数13,738機生産された。地味ではあるが大戦の前期に連合国各国へ供与された機体は、日本軍やドイツ軍に対して劣勢な中で重要な使命を担った。 なお、大日本帝国陸軍は完全な状態のP-40を数機鹵獲し、内地に送りテスト飛行や研究用に使用したほか、1943年に羽田空港で開催された鹵獲機展示会で一般向けに公開されている。なおビルマ戦線のラングーンでは、少数の鹵獲P-40による臨時の防空隊が飛行第五十戦隊の高野明中尉(陸士53期)以下4名の操縦者と整備隊で結成された。しかし初陣の夜間迎撃では飛行第十二戦隊所属の九七式重爆を誤って不時着大破させるなど、活躍することなく、3ヶ月後の5月26日に解散している。
1943年11月当時大学生だった佐々木陸軍少尉は、陸軍航空技術研究所で鹵獲展示されたP-40に搭乗。防弾装備と、小便を機外に排出するため操縦席に備え付けられた蛇腹状の管を見て、人間工学を配慮した設計に感銘を受けている。
現在、約70機のP-40がアメリカを中心に現存しており、内約30機は飛行可能な保存状態にある。2012年3月には、1942年にエジプトのサハラ砂漠で墜落した英軍のP-40「キティホーク」の残骸が大変良好な状態で発見された。

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2012年10月1日月曜日

P-40 ウォーホーク(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-40 ウォーホーク)

カーチス P-40 (Curtiss P-40) は第二次世界大戦期のアメリカ陸軍の戦闘機である。愛称はウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指す言葉) 。 性能的には平凡な機体であったが、実用性が高く常に量産体制が整っていた事もあり、他の戦闘機の補完的存在として広く使われた。 アメリカ陸軍のみならず連合国各国にも多数が供与され、イギリス軍ではC型までをトマホーク (Tomahawk:インディアンの用いた斧)、D型からをキティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所) の名称で装備した。

1938年、P-36の改造型として空冷エンジンを液冷のアリソンエンジンに換装しXP-40として初飛行した。この機体は、最大速度で原型のP-36よりも70kmも速かったので、直ちに量産命令が出てフランスに援助機として振り向ける事となった。しかし1940年のフランス敗戦により、援英機として、トマホークの名でイギリスに供与された。
日中戦争で日本軍の攻勢に苦しんでいた中華民国の蒋介石の妻で、国民党航空委員会秘書長でもあった宋美齢のアメリカ軍への呼びかけにより、中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられたクレア・リー・シェンノートにより、アメリカの「義勇兵」パイロットで編成されたAVG(フライング・タイガース)はP-40を129機装備し、国民党軍を支援するため中国で活動した。
日本軍の九七式戦闘機や九七式重爆撃機、少数の隼(加藤隼戦闘隊)を相手に一撃離脱戦法で戦い、1941年12月20日~翌年6月12日の解散までに「フライング・タイガース」側の記録では撃墜・撃破171機(日本側記録89機)の戦果をあげ、自らは80機を失ったとされた(この「撃墜記録」は、報奨金獲得のために水増しされているとの意見もあり、実際に日本側の被撃墜記録との乖離が激しい)。
また、1941年12月の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時にアメリカの植民地のフィリピンに配備されていた同機は、零式艦上戦闘機や一式戦闘機「隼」をはじめとする日本機の邀撃に当たったが空戦性能に遅れをとり劣勢に立たされた。
連合軍は後に武装の貧弱さと高度性能の改善をはかり、マーリンエンジン搭載に改良したF型を投入し、これを「ウォーホーク」と称した。P-40Fは高々度において、はるかによい性能を発揮した。しかし、あまり多数のマーリンエンジンは入手できなかった。というのは、よりすぐれたノースアメリカン P-51 マスタング にそのエンジンの優先権が与えられていたからである。
エンジンと武装の改良を繰り返し最終のQ型まで総数13,738機生産された。地味ではあるが大戦の前期に連合国各国へ供与された機体は、日本軍やドイツ軍に対して劣勢な中で重要な使命を担った。 なお、大日本帝国陸軍は完全な状態のP-40を数機鹵獲し、内地に送りテスト飛行や研究用に使用したほか、1943年に羽田空港で開催された鹵獲機展示会で一般向けに公開されている。なおビルマ戦線のラングーンでは、少数の鹵獲P-40による臨時の防空隊が飛行第五十戦隊の高野明中尉(陸士53期)以下4名の操縦者と整備隊で結成された。しかし初陣の夜間迎撃では飛行第十二戦隊所属の九七式重爆を誤って不時着大破させるなど、活躍することなく、3ヶ月後の5月26日に解散している。
1943年11月当時大学生だった佐々木陸軍少尉は、陸軍航空技術研究所で鹵獲展示されたP-40に搭乗。防弾装備と、小便を機外に排出するため操縦席に備え付けられた蛇腹状の管を見て、人間工学を配慮した設計に感銘を受けている。
現在、約70機のP-40がアメリカを中心に現存しており、内約30機は飛行可能な保存状態にある。2012年3月には、1942年にエジプトのサハラ砂漠で墜落した英軍のP-40「キティホーク」の残骸が大変良好な状態で発見された。

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2012年9月10日月曜日

ベル P-39 エアラコブラ(アメリカ陸軍航空隊戦闘機)

情報元:Wikipedia(ベル P-39 エアラコブラ)

ベル P-39 エアラコブラ(Bell P-39 Airacobra)は、第二次世界大戦初期に活躍したアメリカ陸軍の単発レシプロ戦闘機。同国の航空機メーカーであるベル・エアクラフト社によって開発された。

形態は珍しく、胴体中央(操縦席の後)に液冷式のエンジンを置き、プロペラ軸を通った大口径機関砲を機首に装備した。これは主に機関砲の安定性を保つための仕組みであったが、エンジンを中央に置くことで運動性も向上すると見込まれた。また、前輪式降着装置(米国の戦闘機では初めて)を備えたため離着陸時の視界も従来の戦闘機と比べて良好だった。 実用型では排気タービンを外され一段一速過給器のV-1710エンジンのため高高度性能が貧弱で、英国に輸出された機体(P-400)は期待はずれの性能(カタログスペックに満たず、ホーカー ハリケーンより劣ると評価された)により、僅かに使用されただけで運用中止、1941年12月からソ連へのレンドリースに回されてしまった。
一方、太平洋戦線では米陸軍やオーストラリア軍に配備されたP-39及びP-40が日本海軍の零戦と戦い、やはり中高度域での性能、特に加速性が零戦には及ばなかった事から、不利な戦闘を強いられた。
しかしソ連に4773機が送られ、1942年5月から空軍及び防空軍に配備されたP-39は、大変な好評をもって迎えられた。対地支援任務を主とするソ連空軍では戦闘機でも低空域での空戦がメインであり、高度による性能低下に苦しむことなくその本領を発揮できたのである。以前は他の戦線での低い評価により、37mm機関砲による対地攻撃任務に活躍したと思われていたが、ソ連崩壊以降伝わってくる記録や当時のパイロットの話によると、ドイツ戦闘機との空戦において十分対抗できたとされており、事実、多くの有名エース・パイロットが搭乗している。ソ連軍では機動性を優先し、翼内機銃やガンポッドを撤去して機首武装のみで運用された。また東部戦線で運用されるアリソン・エンジンの寿命は短く、頻繁に交換する必要があったとのことである。
同時期にアメリカ海軍も同等のXFL「エアラボーニタ」を艦上戦闘機として試作要求したが、こちらは本採用は見送られた。
後継機として、同じレイアウトで高度による性能低下問題を解決した発展型、P-63「キングコブラ」が採用されたが、P47、P51といった優秀な新型機の配備が進むアメリカ陸軍ではほとんど使用されず、やはりソ連に渡り活躍した。
初飛行は 1939年4月で、戦闘配備は 1941年初期。
日本軍のパイロットからは、その形状より「カツオブシ」と呼ばれた。

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2012年7月27日金曜日

XF8B(アメリカ陸・海・空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(XF8B)

XF8Bは、アメリカ合衆国のボーイング社がアメリカ海軍向けに開発していたレシプロ長距離艦上戦闘機。第二次世界大戦の終結により量産は行われなかった。

アメリカ海軍は、日本海軍の航空機が長距離性能を重視しておりアメリカ海軍の同種類の機体より航続距離が長かったことを憂慮し、それに対抗するために長距離の航続性能を持つ迎撃および護衛戦闘機の開発仕様を1943年に各航空メーカーに提示した。この仕様は、最大速度550km/h以上で、迎撃、護衛の他、急降下爆撃機や雷撃機として使用できることを求めるなど、かなり欲張ったものであった。久しく艦上戦闘機を開発していなかったボーイング社では、この過酷な要求をクリアするため28気筒3,000馬力の大出力エンジンを搭載し、3翅2重反転プロペラを採用した万能機の設計案(モデル400)を提出し、1943年4月にXF8B-1として試作機3機を受注した。
試作第1号機の初飛行は1944年11月27日に行われ、1945年3月に海軍へ引き渡された。第二次世界大戦中に完成したのはこの1機のみであり、終戦後に残りの試作機2機が完成した。速度性能や航続性能は優秀なものを示したが、大型の機体故に運動性能では軽快性に欠き戦闘機としては物足りないものだった。加えて戦争の終結やXBT2D等の新型単座攻撃機の開発に目処が付いたため、本機の必要性は急速に薄れていった。このため、試作機3機の生産だけで本機はキャンセルされてしまった。
なお、陸軍航空軍でも海軍からレンタルする形で本機のテストを行ったが制式採用はなされなかった。

2012年7月20日金曜日

P-38 ライトニング(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-38 ライトニング)

P-38 ライトニング (P-38 Lightning) は、ロッキード社が開発し、1939年にアメリカ陸軍に正式採用された戦闘機。
愛称であるライトニング(Lightning)は稲妻。日本側では「メザシ」や、戦争初期、低高度性能が低く格闘戦に持ち込みやすかった頃に「容易に撃墜できる=ペロリと食えるP-38(=Pろ8)」から「ペロハチ」と呼んでいた。しかし、速度を生かした一撃離脱戦法に切り替えてからはキルレシオが逆転、速度で圧倒的に劣る日本機を寄せ付けない強さを発揮し、「双胴の悪魔」と称されるようになった。 米軍エース・パイロットの中でそれぞれ第1位と第2位の記録を残した、リチャード・ボングとトーマス・マクガイアの搭乗機も、共にP-38である。また、太平洋戦争における日本軍機の撃墜数は3,785機とされており、これは米軍機の中ではF6F、F4Uに次ぐ第3位の撃墜数である。
一方イギリスに展開したP-38も一撃離脱でドイツ機と戦ったが速度で同等、機動性で大幅に劣るP-38はドイツ空軍単発戦闘機に大いに苦戦した。
1943年5月以降、それまで航続距離がスピットファイアと大して変わらなかったP-47 サンダーボルトに外装補助タンクが取り付けられ、重爆の護衛にもついていけるようになるとP-38 ライトニングは北アフリカ戦線に送られた。

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2012年7月4日水曜日

XP-67(アメリカ陸・空軍双発戦闘機)

情報元:Wikipedia(XP-67)

マクドネル XP-67 (McDonnell XP-67) は第二次世界大戦後期に米国のマクドネル・エアクラフト(以下、マクドネル社)が開発していたアメリカ陸軍航空軍向けの単葉単座レシプロ双発戦闘機である。機体の非公式名はバット(Bat) 。後に一大軍用航空機メーカーになるマクドネル社が最初に製作した軍用機で、胴体及びエンジンナセルと主翼の翼幅方向の縦断面形を連続的に繋げること(ブレンデッドウィングボディ)により空気抵抗(特に干渉抗力)の軽減を図った意欲的なスタイルであった。しかし、試験時に発生した諸問題と需要の消滅により試作1機のみで開発は中止された。

岡部ださく世界の駄っ作機の1巻に登場します。 私も購入しましたが、飛行機好き(戦闘機、攻撃機、爆撃機)にはたまりません。

世界の駄っ作機(楽天)
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2012年6月8日金曜日

XP-55(アメリカ陸軍試作戦闘機)


情報元:Wikipedia(XP-55)

カーチスXP-55はカーチス社がアメリカ陸軍用に試作した戦闘機である。愛称はアセンダー (ASCENDER) 。機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した先尾翼機だったが、安定性不良等の問題から開発中止となった。


1939年にアメリカ陸軍は、レシプロ機の限界を打ち破るべく周回計画 (Circular Proposal) R40Cという単発の迎撃機の仕様を航空メーカー各社に提示した。そして、バルティーXP-54、ノースロップXP-56と共に、カーチス社の設計案に対して試作発注がなされることとなった。カーチス社の設計案では、主翼は後退翼で着陸装置はカーチス社の軍用機としては初の3車輪式の先尾翼機で、エンジンは開発中だったP&W X-1800(2,200 hp)を搭載することになっていた。しかし、陸軍は余程カーチス社に信頼がおけなかったのか、地上試験用モデルと風洞テスト用モデルの製作発注のみを行い、試作機の発注はその結果次第で行うという対応をとった。その結果、カーチス社はまず実物大の飛行テスト機(社内名称 CW-24B)を自費製作し1941年12月からテストを行った。そして、その年の7月にようやくXP-55として試作機3機の発注を陸軍から受けることができた。 試作1号機の初飛行は1943年7月19日に行われたが、その時点から安定性不良が指摘された。また、搭載予定していたX-1800エンジンが開発中止となってしまったため、約1,000 hpも出力が落ちるアリソンV-1710エンジンを搭載したが、このエンジンでは明らかにパワー不足であった。試作1号機は1943年11月に失速試験を行っている際に墜落して失われた。翌年に、全幅や小翼の形状を変更し操縦性の改善を図った2号機、3号機が完成した。しかし、劣悪な操縦性や低速時の安定性不良は改善されず、最高速度も当時の制式戦闘機を下回る628 km/hしか出なかった。結局、性能不良ということで、本機の開発計画は中止になってしまった。