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2012年11月12日月曜日

メッサーシュミット Me262(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミット Me262)

メッサーシュミット Me262 (Messerschmitt Me 262)は、第二次世界大戦末期にドイツ空軍が使用したジェット戦闘機、爆撃機である。愛称は「シュヴァルベ(Schwalbe、ドイツ語でツバメの意 )」。世界初の実戦配備および実戦を行ったジェット機である。

第二次世界大戦末期のドイツ空軍の最終兵器として登場したイメージが強いが、ジェット戦闘機の開発自体は開戦前の1938年から始まっていた。ドイツでは翌1939年、ハインケル社がジェット機の初飛行に成功し、ターボジェットエンジンの製作がBMW社及びユンカース社で始まっていた。 1939年6月7日、メッサーシュミット社からP1065計画が立案され、その設計の完成度は高かったが、後に生産された機体とは外見がだいぶ異なっていた。予定されていたBMW003ジェットエンジンが開発中に寸法が大型化。そのまま取り付けると機体の重心が狂ってしまい危険だった。その解決策として、エンジン外側の主翼を後方に18.5度曲げて後退角を付けた。本機は最初から後退翼機として設計されたというよりは、結果としてそうなったという方が相応しい。浅い後退角は後退翼効果を得るのには不十分で、重心位置改善以外に性能向上に貢献したとは言えない。エンジン装着位置も、当初案では翼桁の間に設置する予定であったが、それは簡単ではなかったので、主翼下に装着位置を変更。このあたり、当時未知のジェット機を開発する過程での試行錯誤だろう。さらに正面から見た胴体形状を、楕円形から上向き三角形に変更し、武装も20mm砲3門から30mm砲4門へ強化するなど、様々な設計変更を余儀なくされた。
1941年4月18日、試作1号機であるMe 262 V1の試験飛行が試みられた。当時BMW 003エンジンが実用レベルに達していなかったため、やむなくレシプロエンジンのユンカース社製Jumo 210Gを機首に装着して行われ、操縦性は極めて良好と判明。BMW003エンジンが搭載された後も、安全上の理由で機首Jumo 210Gエンジンはそのまま残したがこの措置は妥当だった。
1942年3月25日、Me 262 V1のジェットエンジンを用いての初飛行中、エンジンが2つとも停止し、機首のJumo 210Gだけで緊急着陸した。信頼性の低いBMW 003に代わって、ユンカース社のJumo 004Aエンジンに換装、また機首のレシプロエンジンを撤去し、武装としてMG 151/20機関砲3門が搭載された。本機は1944年6月7日の試験飛行で損傷して飛行不能となり、その役目を終えた。試作2号機であるMe 262 V2では当初からJumo 004 Aが搭載され、1942年10月1日に初飛行に成功、しかし翌年4月18日に事故で失われている。 試作3号機であるMe 262 V3は、1942年7月18日、ドイツ南部のギュンツブルク地区・ライプハイム空軍基地において、フリッツ・ヴェンデルの操縦によりジェットエンジンのみでの初飛行に成功し、ジェット機として新たなスタートをきった。しかし、更なる改良が加えられた。エンジン内側の主翼にも後退角が付き、前縁スラットを追加。また当初尾輪式だった降着装置は、試作5号機Me 262 V5からP.1065案同様の前輪式に変更された。尾輪式だった理由は、三車輪式が「アングロアメリカの発明品であるから」というナチス的な理由によるものであった。このため、離陸速度に達しても迎角が大きく離陸できず、ブレーキを軽く踏むことで機を水平にすることが必要であった。この間もテスト飛行は続けられ、1942年中に機体の調整は完了していたが、Jumo 004エンジンは依然不安定で、量産には手間取った。
1943年になると、試作4号機が空軍首脳部に披露され、同年5月22日にアドルフ・ガーランド少将(当時)がMe 262 V4に試乗。これを「天使が後押ししているようだ」と絶賛し、レシプロ機からの転換を言明した。さらにJumo 004B-0を搭載し前輪式降着装置を油圧引込式に改良した試作6号機Me 262 V6が、7月25日に航空相ヘルマン・ゲーリング元帥とエアハルト・ミルヒの前でデモンストレーション飛行を行った。
1943年11月26日、インスターブルク航空センターで地上展示された空軍の各種新兵器の中にあった、Me 262 V6を見た総統アドルフ・ヒトラーは、ゲーリングに対しこれは爆弾の搭載が可能であるかと質問した。ゲーリングの(事前にメッサーシュミット博士と打ち合わせ用意していた)理論的に可能であるとの解答を受け、ヒトラーは「電撃爆撃機が誕生した!」と宣言し、Me 262を高速爆撃機として生産するよう命じた。しかし、これらはMe262の高高度での高速性という性能をもつ飛行機の用途としては無意味な提案であった。当時、連合国軍の大規模爆撃がドイツ各地に被害を与え、ヒトラーとしては、それに対する報復と、ヨーロッパ大陸への侵攻に備え集結していた連合軍への攻撃を考えていたのである。(当時、世界の戦闘機の主任務用途は空対空戦闘から地滑り的に戦術支援への転移を生じており、ヒトラーは慧眼にもこの動向を洞察していたという声もある。) 後のガーランドの談によると、彼はジェット機開発計画の初期段階である1942年春の会議ではMe 262を戦闘機とするか爆撃機とするか、一面的に開発を進めるべきではないと発言し、メッサーシュミット博士も同意見であったという。ゲーリングがヒトラーに対して爆撃機として使用可能であると答えたのも、機種全体の開発計画を推進させるためのものであったのだが、これは結果的に戦闘機としての実戦投入を遅らせるだけの結果となった。
ガーランドはMe 262を戦闘爆撃機として運用することを推進するディートリッヒ・ペルツと対立しながらも、本土防空用戦闘機としての編成を進めていた。しかしヒトラーはこれを拒否、ミルヒからの解答でMe 262が戦闘機型のみ作られていることを知って激怒し、1944年5月23日の会議で、Me262を戦闘機と呼ぶ事を禁じ、爆撃型のみを生産させた。ただし1944年6月の会議の記録では、それはジェット爆撃機であるAr 234の生産が軌道に乗るまでの暫定的なものとされている。そして空軍上層部との対立が激しくなったガーランドは、後に戦闘機隊総監の地位を解任された(しかし、大戦末期の1945年2月、彼はMe262装備の部隊の指揮官となっている)。

2012年10月17日水曜日

He 219(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(He 219)

He219は第二次世界大戦中期に登場したハインケル社製のドイツの夜間戦闘機である。愛称は「ウーフー」(ワシミミズク)。

第二次世界大戦下、英空軍によるドイツ本土への夜間爆撃が本格化するなかで、ドイツ空軍が爆撃機を改造した応急的な夜間戦闘機しか保持していない事を憂慮したヨーゼフ・カムフーバー (Josef Kammhuber))大佐は、ハインケル社にP.1055、P.1056という開発を停止していた機種を再設計するように要請した。結果、誕生したのが双発の本機である。原型一号He219V1は1942年に初飛行を行い、最大時速615km/hを記録している。これは今までのJu 88等を転用していた夜間戦闘機の中で、最も高速であった。翌年の三月にレヒリンの空軍実験センターで行われた模擬空戦でも、Ju88RやDo217Nに圧勝、航空省から300機の量産受注を獲得する。

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2012年9月24日月曜日

メッサーシュミットMe210/410(ドイツ空軍重戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミットMe210/410)

メッサーシュミット Me210/410 は第二次世界大戦前にドイツで開発された双発プロペラの重戦闘機である。

メッサーシュミット Bf110の後継機として開発された、Bf110と同じく双発二人乗りの駆逐戦闘機である。Me210の改良型がMe410で、Me410は、当初はBf110を上回る性能を発揮し連合国の爆撃機の迎撃に活躍した。 しかし後期になるにしたがい、爆撃機護衛の単発戦闘機の高性能化により活躍の場を失い、その後は本来の戦闘機としての任務よりも航続距離の長さを生かした偵察機、戦闘爆撃機としての任務に活躍した。

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2012年8月29日水曜日

ハインケル He 162(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(ハインケル He 162)

ハインケル He 162(Heinkel He 162)は第二次世界大戦末期にナチス・ドイツのハインケル社で開発・製造された単発単座ジェット戦闘機。 愛称は「フォルクスイェーガー(Volksjäger)」。ドイツ語で「国民戦闘機」を意味し、これはドイツ航空省(RLM)により同機に付けられた制式名称である。この名称は一般市民による製造と搭乗をも想定した戦闘機開発計画から同機が生まれたことにちなむ(同様の用語に国民突撃隊がある)。また、同機は開発計画の中では「ザラマンダー(Salamander、火トカゲ(サラマンダー)の意)」のコードネームで呼ばれ、さらにハインケルからは「シュパッツ(Spatz、スズメの意)」とも呼ばれた。 初期のジェット戦闘機の中では最も速く飛ぶことができ、戦局の悪化からアルミニウム不足をきたしたため、機体を合板で代用できる部分は代用したこと、外見的には単発ジェットエンジンを背負式に装着していることが主な特徴である。

2012年8月7日火曜日

ドルニエ Do 217(ドイツ空軍爆撃機・夜間戦闘機)

情報元:Wikipedia(Do 217)

Do217は、第二次世界大戦中にドイツ空軍で運用された双発爆撃機である。ドルニエ社で開発され、Do 17の後継機として開発されたためDo 17と外形的には似た部分も多いが、より近代化された機体であった。当初爆撃機として運用されたが、その後夜間戦闘機や偵察機としても使用され終戦まで活躍した。総生産機数は、1,905機である。ドルニエDo 215の拡大版であり、同じエンジンを搭載していたが詳細な部分は異なっていた。

最初の原型(Do217V1)は、1938年10月4日に初飛行したが、7日後に墜落事故を起こしてしまった。原因はエンジンのパワー不足によるものであり、Do217V1のエンジンは同時代の爆撃機に比べると明らかにパワーが不足していた。また、安定性も問題となっていたが、それは垂直尾翼の形状変更で解消された。
BMW 801エンジンを搭載してからパワー不足も解消され爆弾の搭載量も増大した。これによりDo 217はドイツ空軍爆撃機のなかで最大の爆弾搭載量を誇るようになった。
Do 217には急降下爆撃能力が求められていたために尾翼にダイブブレーキが装備される予定でいたが、初期型では十分な性能が得られずにDo 217E-2までダイブブレーキ機能は省略されていた。ダイブブレーキを装備した後期型でも、ブレーキの使用によって胴体後部に無理な負荷がかかったためブレーキを取り外した機体もあった。 Do217はハインケル He111やJu88よりはるかに大きい爆弾搭載量を持ち、最高速度でも優れていた。ハインケルHe177が完成するまではドイツ最大の爆撃機だった。
Do217は1943年9月、対艦誘導爆弾フリッツXで、イタリアの降伏後に連合軍側に移った戦艦ローマを撃沈した。Do217は1944年中頃まで使用されていた。

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2012年7月31日火曜日

フォッケウルフ Ta 152(ドイツ空軍高高度戦闘機)(スライド動画)

情報元:Wikipedia(フォッケウルフ Ta 152)

Ta 152は、第二次世界大戦末期にドイツの航空機メーカー フォッケウルフによって製造された高高度戦闘機。同社の戦闘機 Fw 190D-9を発展させたものである。
フォッケウルフ製の航空機でありながら機種コードが Fw でないのは、1943年10月、ドイツ航空省 (RLM) が「新たな戦闘機には主任設計者の名称を含める」と定めたことによる。その結果、主任設計者クルト・タンクの名字 (Tank) から Ta となった。(同様な例として、エリック・バッヘム博士のBa等がある。)

高度6,000メートル以上で急激に性能が低下するFw190Aを液冷エンジン化することで高高度に対応したFw 190 D-9 タイプ(ドーラ9)は戦闘機として一応の成功を収めたものの、搭載するエンジンは本来高高度用ではなく、真の意味での高高度戦闘機と呼べるものではなかった。そこで、フォッケウルフの設計者クルト・タンクは高高度での戦闘能力向上をはじめとした能力全般の向上を図った機体の開発に取り組んだ。その結果誕生したのがTa 152である。この機は高度 12,500 m で 760 km/h の最高速度を目標とし、「究極のレシプロ戦闘機」として、大きな期待がかけられた。
本機の特徴は、空冷エンジン装備のFw-190Aに水冷エンジンを換装したFw-190 D-9をベースにさらに高高度飛行に対応したもので、D-9との主な違いは、高高度用エンジンへの換装、与圧コックピット、主翼の大アスペクトレシオ化、さらに、武装強化策として、Fw-190シリーズでは初のプロペラ軸内機銃の装備などである。
これらの追加装備によって機体の全備重量はD-9から1トン近くも増加したため、主脚も大幅に強化されたが、主脚自体の重量増加に対して、Fw-190の電動式引き込み脚のモーター出力では対応できなくなり、油圧式引き込み脚に変更されている。
また、主翼の大アスペクトレシオ化に伴ってフラップ長(=面積)も増大したため、作動中にフラップに掛かる風圧も大きくなり、Fw190シリーズの電動方式から油圧式に変更された。
一方、Fw-190シリーズの特長である、操縦桿と方向舵・昇降舵とを差動クランク機構を介してロッドでダイレクトに繋いだコントロール機構、水平尾翼の電動式角度調整機構などは、そのまま踏襲されている。
さらに、Fw-190では、方向舵のみをコントロールする簡易型の自動操縦機構であったが、本機ではさらに昇降舵、補助翼もコントロールできるようになり、より進化した自動操縦システムが搭載されている。
エンジンにはユンカース・ユモ 213シリーズが採用された。タンクはより高高度・高回転型のダイムラーベンツ・DB 603を希望したが、この期に及んでもメッサーシュミット優先を覆さなかったナチ政権はメッサーシュミット以外の戦闘機には生産工数の少ないユンカース製を指定した。また、ユモ 213でも本来であれば性能向上形が用いられる予定であったが、こちらは戦局の悪化に伴い開発・生産が滞った為に、試作初期の機体はFw190Dシリーズと同じユモ 213Aを搭載したH-0として完成した。
中・低高度用のTa152Cシリーズには、DB603が指定されたが、こちらの量産機はついに1機も完成することはなかった。
もっとも後の評価では、タンク博士の「戦闘機とは競走馬ではなく、軍馬でなくてはならない」という持論からすると、繊細なDB603よりも、ユモ 213で完成されたことは結果的に正しかったともされる。
本機にまつわる逸話として次のようなものがある。タンク自らが操縦桿を握って飛行していた時、2 機の P-51 による追撃を受けたが、実弾が未装備だったので、パワー・ブースターを作動させて悠々と逃げ去ったというものである。
戦後、アメリカがイギリス経由で入手した一機(H-0)がスミソニアン博物館のポール・ガーバー施設倉庫に解体状態で保管されている。唯一の現存機だが、未だ復元される様子は無い。

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2012年7月13日金曜日

メッサーシュミットBf110(ドイツ空軍重戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミットBf110)

メッサーシュミットBf 110は、第二次世界大戦前にドイツで開発された双発プロペラの重戦闘機である。Me 110とも呼ばれる。 高速戦闘機として登場したが、バトル・オブ・ブリテンでは期待されていた対戦闘機戦で大きな被害を受けたため低い評価がなされている。しかしその後、重武装と高速性能、航続距離を生かした戦術開発によりドイツ空軍にとっては無くてはならない役割を果たしている。

第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間に、各国では長距離侵攻のための航続力と速度性能を両立させる双発戦闘機の開発が模索されていた。 ドイツ空軍省ではヘルマン・ゲーリング空軍総司令官がこの構想を積極的に支持したため、1934年秋に"戦略重戦闘機開発仕様書"を発行し、長距離侵攻ができる航続力と快速を兼ね備える多目的な戦闘機"Kampfzerstörer"(爆撃駆逐機)の開発を要請した。具体的には双発、複座、金属製単葉機、爆弾倉と大口径砲を備えることを条件としていた。
7社から提示された試作プランの中で、ヘンシェル社、フォッケウルフ社と、BFW社(のちのメッサーシュミット社)の3社によって競作されることとなり、それぞれにHs 124、Fw 57、Bf 110の型式番号が与えられた。 Hs 124とFw 57は要求に沿って爆弾倉と銃塔を備えた機体として試作されたものの、要求を満たす性能を達成することができなかった。これに対してBFW社は仕様書と異なり爆弾倉が無い小型でコンパクトな機体プランを提出したため試作許可がおりなかったが、運、あるいはエルンスト・ウーデットによる圧力によって試作される運びとなり、1936年5月12日にBf 110 V1試作機が初飛行を遂げた。 試作機は高い速度性能を示し、当時のドイツ軍が実戦で使用していたBf 109B戦闘機の最高速度470km/hに対し、DB600エンジンを搭載したBf 110 V1は509km/hの速度を記録している。これにより1937年に採用が決定され、ドイツ空軍は本機を駆逐機 (Zerstörer) と呼び従来の単発戦闘機と区別し大きな期待をかけることとなった。
Bf 110 V2試作機が10月に、翌1937年から1938年初頭にかけて前生産型のA-0型が4機製作された。ここでDB 600エンジンの生産性と信頼性の低さが問題となったため、後継機のDB 601エンジンを搭載することが決定される。DB 601の完成までは暫定としてJumo210エンジン(600馬力)が選定された。Jumo210エンジンは出力が低く速度性能が大幅に低下してしまい、改良型のJumo210G(700馬力)を搭載したBf 110 B型にしても前生産型、戦闘機型、写真偵察機型、訓練機型が合計45機生産されたにとどまっている。
1938年の終わりには待望のDB601エンジン(1,050馬力)が完成。これを搭載し、ラジエーターの配置等の改良が行われたC-0型は最大速度545km/hの高速で飛行し、これにより初の大量生産が行われることになった。 Bf 110は双発機としては小型の機体で、細身の胴体ながら十分な拡張性があったため、後の装備追加に対応することが出来た。高速性能には優れていたが、機体は重量があり単発戦闘機に比べ旋回性能や機動性に劣り加速性能の悪いことがテストパイロットから指摘されている。
武装としては機首上面に7.92mm機銃4挺、機首下面に20mm機関砲2門を集中配置し高い攻撃力をもっている。またコクピット後方に防御用の7.92mm機銃座1基を備えていた。

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2012年6月30日土曜日

メッサーシュミット Me163(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミット Me163)

メッサーシュミット Me 163 「コメート」(Messerschmitt Me 163 "Komet") は、第二次世界大戦時にドイツ空軍が開発した航空機史上唯一の実用ロケット推進戦闘機。「コメート」とはドイツ語で彗星(コメット)の意。

ロケットエンジンを動力源とした航空機の開発は1920年代には各国で行われていたものの、初期のロケットエンジンは燃焼の制御が難しく、実験は常に爆発の危険が伴うものであった。1937年にドイツのヴェルナー・フォン・ブラウンがエチルアルコールと液体酸素を推進剤とした推力300kgの液体燃料ロケット A1を開発すると、これに着目したハインケル社のエルンスト・ハインケル博士により、Bf 109との制式採用争いに敗れた自社の単発単座レシプロ機 He 112 にこれを搭載した。
1937年6月には離陸から着陸まで全てをロケット動力のみで行う純粋なロケット飛行に世界に先駆けて成功し、ロケット飛行機の実用化に先鞭を付けた

メッサーシュミットMe163 プラモデル・模型等
メッサーシュミットMe163 プラモデル・模型等

2012年6月27日水曜日

He100(ドイツ軍試作戦闘機)

情報元:Wikipedia(He100)

ハインケル He 100は、ドイツのハインケル社が1938年に初飛行させた、高速の単発単座レシプロ戦闘機。世界速度記録樹立時He 112U, He 113 という名称でプロパガンダとして公式発表したケースもあった。計19機が試作されたが、制式採用されずに終わった。大日本帝国海軍が本機を購入したことでも知られる。

メッサーシュミット Bf 109 との競争試作に破れた前作 He 112 の捲土重来を期し、ドイツ航空省からの正式な試作下命なきまま社内コード P.1035 の下で自主開発が進められた。
双子のギュンター兄弟 (Siegfried and Walter Günter) が設計を指揮し、製作順により当初 He 113 の名が与えられていたが、不吉な番号「13」の通り、完成間近の1937年にヴァルターが交通事故で早世したことで遺作になってしまい、He 100 に改称された試作1号機 (V1) は、翌1938年1月22日に初飛行した。
He 112 が Bf 109 より劣速で、上昇力でも運動性でも劣ったことへの反省から、軽量化と徹底的な生産合理化、高速化のための空力的洗練が図られた。抵抗を減ずるため集中冷却器を排し、主翼外板を表面冷却器とした結果[2][3]、同じダイムラー・ベンツ DB 601A を搭載する当時の新鋭機 Bf 109E より、80km/h優速を示した。
He 112 や Bf 109 で離着陸時の事故を多発させていた外側引込式主脚に対し、間隔が広く一般的な内側引込式に改められていたが、過剰な軽量化のため故障が頻発した。
また九七式戦闘機以降の一連の中島飛行機製単座戦闘機と同様に、主翼前縁後退角を0とする手法は本機以降ハ社でも常套化し、He 280, He 219, He 162 らに受け継がれている。内翼の上反角も0で、軽い逆ガル翼を構成している。
1938年6月5日、ドイツ空軍内では異例にハ社に好意的だったエルンスト・ウーデット大佐自ら操縦桿を執り、通常型1,175hpエンジンの試作3号機 (V3) で100km周回区間の世界速度記録634.32km/hを出すや、航空省はこれを He 100 ではなく He 112U (U はウーデットの頭文字)の成果として発表した。更に水・メタノール噴射装置付高過給仕様の改造 DB 601 (短時間出力1,750hp)に換装し、翼弦を短縮した増加試作8号機 (V8) は、ハ社テストパイロットのハンス・ディターレの操縦で1939年3月10日に高度50m以下1km区間746.606km/hの公認記録を樹立したが、空軍省はこれも実戦配備中の He 112U によるものとして対外宣伝した。
期待通りの高性能を発揮した He 100 の制式採用をハ社は確信したが、非ナチ党員でアドルフ・ヒトラーの専横を快く思わぬエルンスト・ハインケルに対し、航空省次官(後に元帥)エアハルト・ミルヒと昵懇の仲で、ナチ幹部でもあったウィリー・メッサーシュミットとは、政治力・影響力の差が歴然としており、戦闘機をメ社の専任とする事が空軍省の当時の方針とされていた。He 100の機体設計も、被弾率の高い主翼を表面冷却器に当てたことが脆弱性を高めることは自明であり、高い失速速度と高翼面荷重、発動機架まで廃止してエンジンをバルクヘッドに直付けするなど「凝り過ぎ」と評された生産・整備上の問題点も多く、実用性に対する懸念は当初から強く持たれており、前線で活躍中の Bf 109 の大量産を減じてまで He 100 を並行配備すべきとの積極的な支持が得られず(搭載するDB601エンジンの生産数が限られていたため、He100を生産すれば、同エンジンを搭載するBf109/Bf110の生産減となる)、それまでの努力は水泡に帰した。
更に、航空省と宣伝省はメ社に速度記録用の Me 209 (Bf 109R) を特製させて He 100 の記録を塗り替え、これを大々的に対外宣伝したのみならず、記録更新を目指したハ社に禁止命令を下した。
このMe209は実用戦闘機化が計画され、製作された4号機Me209V4はDB 601Aエンジンを搭載し、トラブルの多い表面冷却をやめ主翼下面に通常型のラジエーターを備え1939年に初飛行した。しかし、He100と違い元が速度一辺倒で設計された機体だけに実用機として使用するには問題が多く、肝心の速度性能も機体の改修や武装によって機体重量が増加したためBf109Eを下回るまでになった。そのため今後改善の見込みがないとされ、開発計画は中止となった。結果としてHe100はHe177の開発経緯と同様に様々な説が語られている

2012年6月26日火曜日

メッサーシュミットBf109(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミットBf109)

Bf 109 (Messerschmitt Bf 109) は、第二次世界大戦におけるナチスドイツ空軍の主力戦闘機。世界で初めて一撃離脱戦法を前提に開発されたとされ、機体重量に比し小さく薄い主翼を持ち、モーターカノンや主脚のエンジンマウントなど、特徴のある設計となっている。
1934年、バイエルン航空機製造(Die Bayerische Flugzeugwerke/BFW)で開発が開始され、翌1935年、生産開始。設計主任は、かつてBf 108を設計したロベルト・ルッサー技師。後にバイエルン航空機製造はメッサーシュミット社となった。

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2012年6月23日土曜日

フォッケウルフ Fw190(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(フォッケウルフ Fw190)

フォッケウルフ Fw190は、第二次世界大戦時のドイツ空軍の戦闘機。メッサーシュミットBf109とともに主力を担った

ナチス・ドイツ政権の大軍拡政策によって、ドイツ空軍は戦闘機の近代化を強力に推し進めた。ところが、主力戦闘機メッサーシュミットBf109は高性能ではあったものの、操縦が難しかったため着陸事故が急増していた。また搭載エンジンであるDB601は生産性に難があり供給数量に限界があった。その事故率の高さと生産性の問題に不安を感じたドイツ空軍上層部は、1938年になって、フォッケウルフ(フォッケ・ヴルフ)社に対し、バックアップ戦闘機の開発を依頼した。フォッケウルフ社ではこれを受けて、クルト・タンク技師を中心にわずか12人のチームで開発を進め、1939年6月1日に初飛行に成功した。
タンク技師は、第一次世界大戦に騎兵として出征、大学では第一志望の航空力学の講義が禁止されたため電気工学を専攻、在学中はグライダー研究会でグライダーの設計、製作、飛行までを行い、その後さらに、飛行機の操縦ライセンスまで取得するという異色の経歴を持っていた。
タンク技師はFw190開発に当たって、メッサーシュミットBf109のような「速いだけが取り柄のひ弱なサラブレッド」ではなく「騎兵の馬(ディーンストプフェーアト"Dienstpferd")」をコンセプトとして開発を進めた。完成したFw190は、空戦性能のみならず、パイロットには操縦しやすく、最前線でも容易に修理が可能、さらに大量生産しやすい構造という、まさに理想的な兵器であった。
フォッケウルフFw190は、当時使用可能だった唯一の1500馬力級空冷星形エンジンBMW 139を使って開発された。上述の通り、Bf109その他の機体に採用されて生産が手一杯だったDB601系エンジンとは別のエンジンを使用する様に、空軍当局が指示したからである。液冷王国ドイツにおける唯一の空冷エンジン単座戦闘機であり、量産型はのちにBMW社が開発に成功した、より高出力のBMW 801シリーズに換装された。Bf109がヨーロッパ最強を誇っていた緒戦ではあまり注目を浴びなかったが、スピットファイア Mk.V等、連合国の新型戦闘機に対抗する高性能機として1941年から実戦配備が始まった。しかしながら、空軍では能力不足を露呈しつつあったにも拘らずメッサーシュミットのBf109を主力として配備する方針であったため、Fw190は補助戦闘機という低い地位しか与えられなかった。それでも、最初の配備型Fw190Aは英国のスピットファイア Mk.Vを実戦で圧倒し、強力な新型戦闘機の登場という混乱を連合国に与えた。本機の活躍によりドーバー海峡上の制空権はドイツ空軍の手中に収められ、この状況は半年後のイギリス空軍のスピットファイアMk.IXの出現まで継続した。A型は高度6000m以上でBMW 801の出力が落ち、高高度性能が不足していたが中低高度では高性能を遺憾なく発揮し、その後も改良が続けられBf109と共にドイツ空軍を支えた。
Fw190は低高度での高性能に加えて、広く安定した車輪間隔や余裕ある設計や頑丈な機体という特長があったため、これを生かして戦闘機としてのA型のほかに戦闘爆撃機型のF、G型など多様な種類が作られた。爆撃任務を行うF・G型にはBf109の護衛がつく事があったが、 たとえ爆撃機型であってもFw190のほうが空戦性能に優れていたため、護衛する側にとっては馬鹿らしい任務だったそうである[1]。 また、大戦後半には本機の特徴であった空冷エンジンが性能的に限界となってきたため、また高高度性能を改善するため液冷エンジンに付け替えたふたつの改良型が設計された。その内A-7型から改修されたD-7型は、ユンカース社が開発した新しい液冷エンジンV12気筒ユモ 213 (en:Junkers Jumo 213) を搭載し、その改良型のD-9型が量産された。しかし、D-9型が配備され始めた1944年晩夏の頃にはすでにドイツ軍全体が燃料欠乏に悩まされており、さらにベテランの喪失によるパイロット全体の質の低下、さらに数的劣勢が加わってドイツ空軍にはD-9型を有効に駆使する能力は残っていなかった。D-9型は約700機が生産された。もうひとつはタンク技師の本命であり最終開発タイプとなったTa 152(1944年から機体名は設計者名に変更された)であったが、こちらは60機強の生産に過ぎず本格的な配備には到らなかった。Fw190シリーズは、最終的には20000機あまり(修理再生も含む)が生産された。
枢軸国各国及び一部の中立国や連合国でも多く使用されたBf109と違い、Fw190は主としてドイツ空軍で運用された。例外はハンガリー空軍とトルコ空軍で、枢軸国であった前者にはF型の部隊配備がなされ、中立国であった後者には枢軸国側への引き込みを目的に、He 111 Fなどと共にA型が提供された。また、日本は参考のためにA-5型をドイツより有償供与され、1943年に海軍の潜水艦で輸送された。この機は陸軍航空総監部で、技術的な分析ののち飛行テストがなされた。その結果はメーカーの技術者も参照でき、五式戦闘機のエンジン排気の空力処理などの参考にされた。また、日本陸軍が本機に行った有名なテストとして、鹵獲したP-51C、P-40E、及び疾風、飛燕との全力飛行テストが知られている。高度5000mで行われたこの競走では、加速に優れる本機はスタートで他機種を引き離すが3分後にはP-51Cに追い抜かれ、5分後にストップをかけた時点ではP-51Cの遥か彼方に、次いで本機と疾風が大体同じ位置に、少し後れて飛燕、さらに後方にP-40Eという結果であった。
第2次大戦後、Fw190の性能を調査したアメリカ軍は、「第2次世界大戦におけるドイツ最良の戦闘機」という評価を与えている。

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2012年6月10日日曜日

ドルニエDo335(ドイツ空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(Do335)

Do 335プファイルは、第二次世界大戦中、ドイツのドルニエ社により製造された戦闘爆撃機である。
2基のエンジンをコクピットを挟んで前後に配置する、双発串型という特殊なエンジンレイアウトを採用している。垂直尾翼は上下に1枚ずつあって、下の物にはダンパー付きのスキッドが装着され接地対策がされていた。その特殊なレイアウトゆえに「プファイル」(Pfeil=矢)の愛称を与えられ、また一部では「アマイゼンベア」(Ameisenbär=オオアリクイ)とも呼ばれた。
レシプロエンジン機としては最速の部類に入る最高速度770km/h[1]を誇る。脱出時にはパイロットが後部プロペラに巻き込まれる事故を防ぐため、垂直尾翼と後部プロペラを爆砕し圧縮空気式の射出座席でパイロットを脱出させる。なお前後いずれかのエンジン停止時でも飛行は可能。試験飛行の記録によれば、速度・加速・旋回の性能が高く、双発機にしては信じられないほど運動性が良かったと伝えられている。

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