2012年11月12日月曜日

メッサーシュミット Me262(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミット Me262)

メッサーシュミット Me262 (Messerschmitt Me 262)は、第二次世界大戦末期にドイツ空軍が使用したジェット戦闘機、爆撃機である。愛称は「シュヴァルベ(Schwalbe、ドイツ語でツバメの意 )」。世界初の実戦配備および実戦を行ったジェット機である。

第二次世界大戦末期のドイツ空軍の最終兵器として登場したイメージが強いが、ジェット戦闘機の開発自体は開戦前の1938年から始まっていた。ドイツでは翌1939年、ハインケル社がジェット機の初飛行に成功し、ターボジェットエンジンの製作がBMW社及びユンカース社で始まっていた。 1939年6月7日、メッサーシュミット社からP1065計画が立案され、その設計の完成度は高かったが、後に生産された機体とは外見がだいぶ異なっていた。予定されていたBMW003ジェットエンジンが開発中に寸法が大型化。そのまま取り付けると機体の重心が狂ってしまい危険だった。その解決策として、エンジン外側の主翼を後方に18.5度曲げて後退角を付けた。本機は最初から後退翼機として設計されたというよりは、結果としてそうなったという方が相応しい。浅い後退角は後退翼効果を得るのには不十分で、重心位置改善以外に性能向上に貢献したとは言えない。エンジン装着位置も、当初案では翼桁の間に設置する予定であったが、それは簡単ではなかったので、主翼下に装着位置を変更。このあたり、当時未知のジェット機を開発する過程での試行錯誤だろう。さらに正面から見た胴体形状を、楕円形から上向き三角形に変更し、武装も20mm砲3門から30mm砲4門へ強化するなど、様々な設計変更を余儀なくされた。
1941年4月18日、試作1号機であるMe 262 V1の試験飛行が試みられた。当時BMW 003エンジンが実用レベルに達していなかったため、やむなくレシプロエンジンのユンカース社製Jumo 210Gを機首に装着して行われ、操縦性は極めて良好と判明。BMW003エンジンが搭載された後も、安全上の理由で機首Jumo 210Gエンジンはそのまま残したがこの措置は妥当だった。
1942年3月25日、Me 262 V1のジェットエンジンを用いての初飛行中、エンジンが2つとも停止し、機首のJumo 210Gだけで緊急着陸した。信頼性の低いBMW 003に代わって、ユンカース社のJumo 004Aエンジンに換装、また機首のレシプロエンジンを撤去し、武装としてMG 151/20機関砲3門が搭載された。本機は1944年6月7日の試験飛行で損傷して飛行不能となり、その役目を終えた。試作2号機であるMe 262 V2では当初からJumo 004 Aが搭載され、1942年10月1日に初飛行に成功、しかし翌年4月18日に事故で失われている。 試作3号機であるMe 262 V3は、1942年7月18日、ドイツ南部のギュンツブルク地区・ライプハイム空軍基地において、フリッツ・ヴェンデルの操縦によりジェットエンジンのみでの初飛行に成功し、ジェット機として新たなスタートをきった。しかし、更なる改良が加えられた。エンジン内側の主翼にも後退角が付き、前縁スラットを追加。また当初尾輪式だった降着装置は、試作5号機Me 262 V5からP.1065案同様の前輪式に変更された。尾輪式だった理由は、三車輪式が「アングロアメリカの発明品であるから」というナチス的な理由によるものであった。このため、離陸速度に達しても迎角が大きく離陸できず、ブレーキを軽く踏むことで機を水平にすることが必要であった。この間もテスト飛行は続けられ、1942年中に機体の調整は完了していたが、Jumo 004エンジンは依然不安定で、量産には手間取った。
1943年になると、試作4号機が空軍首脳部に披露され、同年5月22日にアドルフ・ガーランド少将(当時)がMe 262 V4に試乗。これを「天使が後押ししているようだ」と絶賛し、レシプロ機からの転換を言明した。さらにJumo 004B-0を搭載し前輪式降着装置を油圧引込式に改良した試作6号機Me 262 V6が、7月25日に航空相ヘルマン・ゲーリング元帥とエアハルト・ミルヒの前でデモンストレーション飛行を行った。
1943年11月26日、インスターブルク航空センターで地上展示された空軍の各種新兵器の中にあった、Me 262 V6を見た総統アドルフ・ヒトラーは、ゲーリングに対しこれは爆弾の搭載が可能であるかと質問した。ゲーリングの(事前にメッサーシュミット博士と打ち合わせ用意していた)理論的に可能であるとの解答を受け、ヒトラーは「電撃爆撃機が誕生した!」と宣言し、Me 262を高速爆撃機として生産するよう命じた。しかし、これらはMe262の高高度での高速性という性能をもつ飛行機の用途としては無意味な提案であった。当時、連合国軍の大規模爆撃がドイツ各地に被害を与え、ヒトラーとしては、それに対する報復と、ヨーロッパ大陸への侵攻に備え集結していた連合軍への攻撃を考えていたのである。(当時、世界の戦闘機の主任務用途は空対空戦闘から地滑り的に戦術支援への転移を生じており、ヒトラーは慧眼にもこの動向を洞察していたという声もある。) 後のガーランドの談によると、彼はジェット機開発計画の初期段階である1942年春の会議ではMe 262を戦闘機とするか爆撃機とするか、一面的に開発を進めるべきではないと発言し、メッサーシュミット博士も同意見であったという。ゲーリングがヒトラーに対して爆撃機として使用可能であると答えたのも、機種全体の開発計画を推進させるためのものであったのだが、これは結果的に戦闘機としての実戦投入を遅らせるだけの結果となった。
ガーランドはMe 262を戦闘爆撃機として運用することを推進するディートリッヒ・ペルツと対立しながらも、本土防空用戦闘機としての編成を進めていた。しかしヒトラーはこれを拒否、ミルヒからの解答でMe 262が戦闘機型のみ作られていることを知って激怒し、1944年5月23日の会議で、Me262を戦闘機と呼ぶ事を禁じ、爆撃型のみを生産させた。ただし1944年6月の会議の記録では、それはジェット爆撃機であるAr 234の生産が軌道に乗るまでの暫定的なものとされている。そして空軍上層部との対立が激しくなったガーランドは、後に戦闘機隊総監の地位を解任された(しかし、大戦末期の1945年2月、彼はMe262装備の部隊の指揮官となっている)。