2012年10月31日水曜日

XB-51(アメリカ陸軍航空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(XB-51)

XB-51は、アメリカのマーチン社が試作したジェット爆撃機。初飛行は1949年。試作のみで、制式採用はされなかった。

1945年にアメリカ陸軍航空軍向けの機体・XA-45として開発が開始された。1946年に名称変更によりXB-51となる。機体の主任務は、低空爆撃と近接航空支援である。完成した試作機は、1949年10月28日に初飛行した。
機体は、軍用機としては珍しい三発機である。二発がコックピット下の機体・顎の部分にそれぞれ取り付けられ、三発目は尾部に取り付けられ、そのインテイクは垂直尾翼前方にある。主翼は後退角35度で下半角が6度ついている。主脚は胴体に二重車輪でタンデムについており、補助脚が主翼端に装備されている。乗員は2名であり、後席手が航法などを行う。
1950年にアメリカ空軍はA-26攻撃機を更新するために、カナダのCF-100やイギリスのキャンベラと比較した。結果、XB-51は低空飛行性能などに高い評価を受けたものの、その降着装置が未整備飛行場における運用に適しておらず、機体強度も低いと判断され、採用されなかった。
XB-51は試作機2機が製造されたのみであり、マーチン社は空軍に採用されたキャンベラ爆撃機の製造を行うこととなった。

2012年10月29日月曜日

F-111 アードバーク(アメリカ空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(F-111 アードバーク)

F-111はジェネラル・ダイナミクス社が開発した軍用機。センチュリーシリーズに数えられることがある。

初飛行は1964年で、世界初の実用可変翼機として知られる。公式な愛称を有さなかったものの、「アードバーク(Aardvark ツチブタの意)」などの複数の愛称で呼ばれる場合もある。(アメリカ空軍は退役当日にアードバークを公式採用することを発表した) 開発はロバート・マクナマラ国防長官の開発費、及び維持費の削減という狙いを強く反映し、アメリカ空軍とアメリカ海軍で共通の機体を使用させる事から空軍型のA型と艦上戦闘機型のB型の2機種の開発を目指した。しかし、B型は艦隊防空戦闘機としての重量軽減などを実現できず、最終的にはF-111Aのみの採用となった。マクナマラがフォード社の出身であることから、自動車のバッジエンジニアリングを軍用機に導入したと揶揄された。 ベトナム戦争や湾岸戦争等に投入され、主に対地攻撃任務に用いられた。
アメリカ空軍では1998年、オーストラリアでは2010年12月に退役した。

F-111 アードバーク プラモデル・模型等(楽天)
F-111 アードバーク プラモデル・模型等(アマゾン)

2012年10月26日金曜日

サーブ 39 グリペン(スウェーデン空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(@@)

サーブ 39(JAS39 JASは「ヤース」と発音)はスウェーデンのサーブ社を中心として開発された戦闘機。愛称はグリペン (スウェーデン語: Gripen (有翼獅子))。

JAS39のJASはスウェーデン語のJakt(戦闘)、Attack(攻撃)、Spaning(偵察)の略で、文字通り戦闘・攻撃・偵察をすべてこなすマルチロール機(多目的戦闘機)である。機体のサイズで分類すれば軽戦闘機となり、航続距離などで妥協する代わりに運用の容易性と高いコストパフォーマンスを実現している。
グリペンはカナード(先尾翼)とデルタ翼の組み合わせであるクロースカップルドデルタという、サーブ 37 ビゲンを踏襲した形状となっている。ただしビゲンのカナードが揚力カナードであるのに対し、それ以降のクロースカップルドデルタ形式は、揚力を発生しない制御カナードを用いる例が多い。グリペンも同様であり、カナード全体が昇降舵のように可動するオールフライング方式を採用している。さらに着陸時には前に最大まで傾き、エアブレーキの役目を果たす。
武装は機銃1門のほか、機体下面に対空・対地・対艦兵装を搭載する。

サーブ39 プラモデル・模型等
イタレリ 2638 1/48 サーブ JAS39A グリペン (タミヤ・イタレリシリーズ:38638)(アマゾン)

2012年10月25日木曜日

Yak-3(ソビエト連邦空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(Yak-3)

Yak-3(Jak-3;ヤク3;ロシア語:Як-3ヤーク・トリー)は、Yak-9の主翼を小型化したソ連の低高度用戦闘機。A・S・ヤコヴレフ記念試作設計局で開発された。

当初は1941年頃より小型の主翼を装備する低・中高度用の格闘戦闘機として開発されていたが一旦中止、1943年からオレーク・コンスターンチノヴィチ・アントーノフ(アントーノフ設計局の創始者)により計画が復活された。新しい機体は当初の機体と異なる水滴型風防装備のYak-1Mを基礎として開発された。主翼はYak-9のものが使用された開発機もあったが、最終的には当初の機体のような小型のものが採用された。エンジンは新型のクリーモフ製VK-107が装備されるはずであったが結局間に合わず、VK-105PF2が搭載された。実戦においては最も優れたソ連戦闘機とも言われたほどの働きを残した。武装は12.7 mm UBS機銃1~2挺と20mm ShVAK機関砲1門であった。生産は、ロシアとウクライナで行われた。

Yak-3 プラモデル・模型等(楽天)
Yak-3 プラモデル・模型等(アマゾン)

2012年10月24日水曜日

LeO 451(フランス軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(@@)

LeO 451は、フランスのリオレ・エ・オリビエ社(Lioré et Olivier)によって第二次世界大戦直前に開発された爆撃機である。1937年1月16日に原型のLeO 45-01が初飛行したが、この機体をより強力なノーム・ローンエンジンに換装したのがLeO 451で、1号機は1938年10月21日に進空した。全金属製の機体で、胴体を曲線でまとめた双尾翼式。1939年9月から量産開始したが生産が遅れ、ドイツ軍侵攻時にはわずか100機程が使用可能状態だったに過ぎなかった。このため、優れた爆撃機でありながら、実際の戦闘において貢献することはほとんど無いまま終わった。
停戦後も生産は続けられ、様々なバリエーションが作られた。最後の機体が退役したのは1957年であった。

2012年10月23日火曜日

P-47 サンダーボルト(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-47 サンダーボルト)

P-47はアメリカのリパブリックにより製造されたレシプロ単発戦闘機である。愛称はサンダーボルト (Thunderbolt) 。 第二次世界大戦当時、P-51と並びアメリカ陸軍航空軍 (USAAF) の主力戦闘機として活躍した。Jug(ジャグ)の愛称でも知られる。空中戦にも強かったが、特に戦闘爆撃機(ヤーボ)として大いに活躍した。アメリカ以外の連合国の空軍でも使用された。

P-47 サンダーボルト プラモデル・模型等(楽天)
P-47 サンダーボルト プラモデル・模型等(アマゾン)

2012年10月22日月曜日

デ・ハビランド(DH.110) シービクセン

情報元:Wikipedia(デ・ハビランド(DH.110) シービクセン)

デ・ハビランド シービクセン (de Havilland Sea Vixen) とはイギリスの航空機メーカー、デ・ハビランド社が開発したイギリス海軍の全天候艦上戦闘機である。

元々、デ・ハビランドが第二次世界大戦終了直後に開発された戦闘機バンパイアの発展型であるベノムの主翼形状を直線翼から後退翼に変更し、全天候能力を付与した機体として空軍の発注で開発が開始された。
機体の特徴として、胴体が二分されている双胴型であり、操縦席は機体の中心軸から、ややずれた位置に据えられていた。これは、全天候能力の要であるレーダーを操作するレーダー手の座席空間を確保するための配置であった。
この機体は「雌狐」を意味するビクセンと命名され1951年に初飛行し、空軍が配備することを決定した。ところが翌年、ファーンボロー航空ショーでデモ飛行中のビクセンが空中分解を起こし、墜落。観覧していた民間人を含む29人の犠牲者を出す大惨事を引き起こし、空軍は契約をキャンセル、ビクセンの不採用を決定し、代わりにグロスター社が開発したジャベリンを採用した。
しかし、海軍がビクセンに興味を示し、航空母艦で使用する艦上戦闘機として導入することに決めた。シービクセンと命名され、艦上で運用するための改良を加えられた。シービクセンは1959年に部隊配備が開始され、主に艦隊が進出した中東やアフリカで警戒任務に従事し、1972年まで使用された。

2012年10月20日土曜日

フィアット G.91(イタリア空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(フィアット G.91)

フィアットG.91はイタリアのフィアット社(後に航空部門を切り離しアエリタリア社になった)がNATO向けに1960年代に開発した戦闘爆撃機である。バリエーションとしては、複座練習機型のG.91T、偵察機型のG.91R、拡大改良型といえるG.91Y(後述)がある。 1956年8月に初飛行し良好な性能を示したが、NATO加盟国のそれぞれの思惑もあって本機を採用したのはイタリア空軍、旧西ドイツ空軍、ポルトガル空軍の3カ国に止まった(このほかに、G.91Rの少数機がポルトガルの植民地であったアンゴラ空軍に引き渡されたとする資料もあるが未詳)。実戦経験としては、ポルトガルの植民地戦争において、ポルトガル空軍がアンゴラ、モザンビーク等での独立解放を目指すゲリラへの対地攻撃や偵察に、本機を投入した。 また、1960年代に米陸軍において近接航空支援・軽攻撃任務用の戦闘攻撃機装備計画が立案され、A-4、N-156F(のちのF-5)等と共に本機がその候補として浮上したものの、計画そのものが白紙化となり米陸軍に装備される事は無かった。このほかに、米空軍、ギリシャ空軍でも採用候補となり、数機が試験採用されたが本採用とならなかった。 後にエンジンをゼネラル・エレクトリック J85の2基に換装し、機体を拡張するなど大幅に改良したG.91Yが登場したが、採用国はイタリアのみに留まった。 採用された国では長期間運用され、最後の機体が退役したのは1995年であった。

フィアットG.91 プラモデル・模型等(楽天)
フィアットG.91 プラモデル・模型等(アマゾン)

2012年10月19日金曜日

イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ(イギリス空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ)

イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ (English Electric Canberra) とはイギリスのイングリッシュ・エレクトリック社が開発し、イギリス空軍に採用されたジェット爆撃機である。初飛行1949年で、2006年にイギリス空軍では退役した。
速度性能や高高度性能、低空での操作性を評価され、イングリッシュ・エレクトリック社は爆撃機を土台に偵察機や練習機も開発した。また、アメリカ合衆国やオーストラリア空軍にも採用され、各国でライセンス生産された。

イギリス空軍は第二次世界大戦中の1943年からデ・ハビランド モスキートのようなジェット高速爆撃機を求めていた。キャンベラの開発は1945年にイギリス航空省から出された要求仕様B.3/45に始まる。要求内容はアブロ ランカスターの航続力とデハビランド モスキートの爆弾搭載量及び軽快性を兼ね備え、ジェット戦闘機と同等かそれ以上の速度と高高度性能を求めた厳しいものであった。
イングリッシュ・エレクトリック社は第二次世界大戦でハンドレページ ハンプデンやハンドレページ ハリファックスの製造を行っていた。戦後もデハビランド ヴァンパイアを製造して技術を高めてきていた。1944年にはウェストランド・エアクラフトのウィリアム・テディ・ペッターを社に招き、イングリッシュ・エレクトリック社で仕様B.3/45の開発に向けて動き出した。そして、1945年9月に航空省に計画を提出し、翌年1月には航空省から試作機製造の契約を結ぶところまでこぎ着けた。
高高度性能を満たすためにエンジンは、ロールス・ロイスで開発中のロールス・ロイス エイヴォンを選定した。簡素で当時としては一般的な設計は、グロスター ミーティアに似ていたが、ミーティアの拡大版というわけではなかった。試作機のA.1は、1949年4月29日に完成した。構想段階では後退翼の採用も検討されたが、角ばった楕円翼のような低アスペクト比直線翼が選ばれた。両翼それぞれの中央に埋め込む形でエンジン・ナセルを配し、エンジンはエイヴォン RA.2を搭載した。同年5月13日に初飛行し、軽快な運動性と優れた性能を示した。エイヴォンの製造中止を警戒してロールス・ロイス ニーンを搭載した試作機も製造された。
1949年9月にファーンボロー国際航空ショーでお披露目され、名称は最初の海外顧客で、イギリス連邦の構成国、オーストラリアの首都キャンベラにちなんだ。キャンベラがイギリス空軍に引き渡される以前からアメリカとオーストラリアが興味を示していた

2012年10月18日木曜日

三菱 F-2(自衛隊戦闘機)

情報元:Wikipedia(三菱 F-2)

F-2(エフに、エフツー)は、F-1の後継として開発された日本・航空自衛隊の戦闘機である。1995年(平成7年)に初飛行を行い、2000年(平成12年)から部隊配備を開始した。

第4.5世代ジェット戦闘機に分類される航空自衛隊の戦闘機である。F-16を大型化した機体に空対艦ミサイルを最大4発搭載という、戦闘機としては世界最高レベルの対艦攻撃能力と対空能力を兼備しており、「バイパーゼロ」という非公式の愛称を持つ。F-1と同じく支援戦闘機に分類されていたが、現在は「要撃」「支援」の区分が廃止されたため、F-2戦闘機と表記される。その性能や用途から、戦闘爆撃(攻撃)機やマルチロール機に分類される場合もある。
本機の本開発が始まる以前の「FS-X(次期支援戦闘機)」の段階では国産機開発として計画されていたが、技術的・政治的問題によりアメリカとの共同開発となった。これによりロッキード・マーティン社のF-16多用途戦闘機をベースとし、三菱重工業を主契約企業、ロッキード・マーティンなどを協力企業として開発されることになった。
本機は大型化に伴う重量増軽減の為に、炭素繊維強化複合材による一体構造の主翼を世界で初めて採用している。また、量産戦闘機として世界初となるアクティブフェーズドアレイレーダーを搭載し、CCV研究機T-2CCVにより蓄積された国産技術によるデジタル式フライ・バイ・ワイヤ(FBW)を飛行制御に用いる。
94機調達し、一機当たりの調達価格は約119億円と言われている。支援戦闘飛行隊の存在する三沢基地の第3航空団や築城基地の第8航空団を主に、松島基地の第4航空団など教育関係の部隊へも配備され、支援戦闘任務だけでなく要撃任務にも従事している。

三菱 F-2 プラモデル・模型等(楽天)
三菱 F-2 プラモデル・模型等(アマゾン)

2012年10月17日水曜日

He 219(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(He 219)

He219は第二次世界大戦中期に登場したハインケル社製のドイツの夜間戦闘機である。愛称は「ウーフー」(ワシミミズク)。

第二次世界大戦下、英空軍によるドイツ本土への夜間爆撃が本格化するなかで、ドイツ空軍が爆撃機を改造した応急的な夜間戦闘機しか保持していない事を憂慮したヨーゼフ・カムフーバー (Josef Kammhuber))大佐は、ハインケル社にP.1055、P.1056という開発を停止していた機種を再設計するように要請した。結果、誕生したのが双発の本機である。原型一号He219V1は1942年に初飛行を行い、最大時速615km/hを記録している。これは今までのJu 88等を転用していた夜間戦闘機の中で、最も高速であった。翌年の三月にレヒリンの空軍実験センターで行われた模擬空戦でも、Ju88RやDo217Nに圧勝、航空省から300機の量産受注を獲得する。

He 219 プラモデル・模型等(楽天)
He 219 プラモデル・模型等(アマゾン)

2012年10月16日火曜日

F-89 スコーピオン(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-89 スコーピオン)

9はノースロップがアメリカ空軍向けに開発した戦闘機。愛称はスコーピオン(Scorpion)。全天候戦闘機・要撃機として運用された。初飛行は1948年8月16日。

P-61の後継のジェット夜間戦闘機として、1945年12月より開発が開始され、1950年から実戦配備が行われた。機体はレーダー手を乗せるためにタンデム複座となっており、機首にレーダーを搭載している。エンジンは胴体下部に並列に装備しており、ノズルは胴体後部、主翼直後にある。尾翼は細いテールの先に設置されており、主翼は中翼配置の直線翼である。主翼端には増槽を装備できるが、後期型では増槽と武器庫が兼用となった大型ポッドとなった。この大型の増槽のおかげで航続距離は長く、広大な北極海をパトロールする必要があるアラスカの部隊において好評であった。そのため超音速戦闘機が実用化・配備されていき、同時期の単座亜音速全天候戦闘機であるF-86D/Lが退役する一方で、本機は非常に長く使われ、最後の空軍州兵の機体が退役したのは1968年である(航空自衛隊において「アメリカ空軍で余剰になった旧式機」として供与されたF-86Dが退役するのと、同年である)。

F-89 スコーピオン プラモデル・模型等(楽天)

2012年10月15日月曜日

B-26 マローダー(アメリカ陸・海軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(B-26 マローダー)

B-26は、アメリカ陸軍航空隊向けにマーチン社が開発し、第二次世界大戦中に配備された爆撃機である。アメリカ軍における公式ニックネームはマローダー(Marauder=略奪)。
同時期に開発されたB-25より高性能だったが、操縦の難しさから初期型では事故が多発し、乗員には「キラー・プレーン(殺人機)」「ウィドー・メーカー(未亡人製造機)」と呼ばれて嫌われた。その結果、B-25に比べて生産数や使用国の数で大きく差がつく結果となった。

1939年1月にアメリカ陸軍航空隊から出された新型高性能爆撃機の仕様に対して、マーチン社が計画・開発したのがB-26である。計画書では特に速度性能を重視して、当時の爆撃機に比べて円形断面で紡錘型の胴体を持ち翼面荷重の高い高翼機となっていた。
これが陸軍当局の要望と一致したため、本機は試作機無しにいきなり1,100機の大量発注を受けることとなった。1940年11月に量産第1号機が初飛行した。この機体は、最高速度508km/hという高速を出した。しかし、新型機に対する訓練期間が必要だったため、実際に戦場に登場したのは、第二次世界大戦中の1942年に入ってからとなった。

B-26は高速で、重武装かつ防御力の優れた爆撃機だったが、高速力を目指したために翼面荷重が高くなり、操縦はかなり難しく、また着陸速度は200km/hを超えるなど危険な航空機であった。このため離着陸時や低速飛行時の事故が続発し、最初の生産型であるB-26Aは一時生産中止になった。その後改良を加えた型であるB-26Bが開発され生産が再開された。この型は武装と装甲も強化されており、B-26各型の内で最も多く生産された。 この後も、主翼面積を増大させたり迎角を増加させたりするなどした改良型が作られ、主にヨーロッパ戦線で使用された。ヨーロッパ戦線では高い生還率を誇ったものの、同時期に運用されたB-25と比べると運用し辛かったため、必ずしも現場での評判は高くなかった。
また一部の型は魚雷を胴体下に装備する事もでき、対艦攻撃機として対日戦のミッドウェー海戦やニューギニア方面等で用いられたが、投入機数が少なかったこともあり大きな戦果をあげることはできなかった。第二次世界大戦終結後も暫く運用されたが、1948年には全機退役している。
第二次世界大戦中には、連合国のイギリス軍や自由フランス軍に対してもレンドリース機として相当数が供与された。なお、1961年に発生したピッグス湾事件で亡命キューバ人部隊に供与され、実戦使用されたのは本機ではなく、1948年の機種区分変更以前はA-26インベーダーと呼ばれていたダグラス社製の航空機である。

陸軍だけでなく海軍でも本機を訓練支援機や写真偵察機として使用した。アメリカ海軍では本機をJMの呼称で、乗員訓練、標的曳航等を行う汎用機として採用した。1943年から1944年にかけて、合計225機が引き渡された。これらは、B26Cをベースにして不要な武装を撤去し標的曳航装置を備えた、射撃訓練/標的曳航機であった。
この中の数機は、航空カメラを装備し写真偵察機として使用された。これとは別に、1945年に陸軍からTB-26G(B-26Gの練習機型)を47機譲渡され、訓練と標的曳航に使われた。これらの機体は太平洋戦争の終結とともに退役し、その後はミサイル標的の曳航機として利用され生涯を終えた。

B-26 マローダー プラモデル・模型等(楽天)
B-26 マローダー プラモデル・模型等(アマゾン)

2012年10月12日金曜日

IAR-81(ルーマニア空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(IAR-81)

IAR-81(ルーマニア語:IAR-81イー・アー・レー・オプゼチ・シ・ウヌ)は、ルーマニアの航空機メーカーであるIARブラショフ(IAR Braşov;Industria Aeronautică Română Braşov)によって開発された軽急降下爆撃機。後期の派生型は急降下爆撃用の装置を廃し、対爆撃機用迎撃戦闘機として設計された。ルーマニア航空隊のみで運用。ルーマニア初の低翼単葉戦闘機であるIAR-80の派生型である。
なお、実機垂直尾翼には「I.A.R.81」と書かれていることが多くこの表記が当時の正式のものと考えられるが、記述上では「IAR-81」または「IAR 81」と書かれることも多くまた近年のIAR製の航空機では「IAR」と表記されることとの整合性から、ここでは便宜的に「IAR-81」を採用することとする。

2012年10月11日木曜日

マッキMC.200サエッタ(イタリア空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(マッキMC.200サエッタ)

MC.200 は第二次世界大戦直前から第二次世界大戦中にかけてイタリアで生産された単座の戦闘機である。愛称は“サエッタ(Saetta=稲妻、矢の意)”

1936年のイタリア空軍増強計画(プログラムR)の仕様に基づいてマッキ社が開発した戦闘機が、MC.200である。 設計にはシュナイダー杯で他国の設計者と高速水上機の設計を競ったマリオ=カストルディ(Mario Castoldi)技師が当たった。このシュナイダー杯には、後にスピットファイアを設計するレジナルド=J=ミッチェルをはじめ、各国の精鋭技師達がその腕を競っていた。 この戦闘機の開発にあたって、まず840馬力のフィアットA74AC38空冷エンジンで500km/hを出さねばならなかったことが苦難の始まりであった。また、保守的なパイロット達は極端なまでの視界性能を要求した。これには、前面投影面積が増し、空力的にマイナスとなることは分かっていても、機体の背を猫背のように高くし、操縦席の視点を上げることで応えた。 1937年12月に初飛行し、フィアットG.50、CR.42等、他のプログラムR応募作品中、最優秀機と判定されたため、ただちに生産に入り、1939年、3個大隊(ストロモ)に配備された。 しかし、そのうちの1個大隊は、複葉戦闘機の方を好んだため、CR.42に改変させられてしまい、また他の大隊でも、原因不明の墜落事故が発生したため、一時、飛行停止の処置が取られた。後に事故の原因は、高G機動時の失速と判明し、対策として、主翼の改修が行われたが、これにより、同機の実戦参加は、第二次世界大戦開始から1年近くが経過した1940年9月まで遅れることとなった。 実戦投入後の評判は良好で、当初は単葉戦闘機を拒絶した保守的なパイロットにも受け入れられ、イタリア空軍の主力戦闘機の1つとして、北アフリカ、地中海、ロシア戦線などで活躍し、卓越した運動性能で、ホーカー ハリケーンMk.Iや、カーチスP-40トマホーク等と互角に渡り合った。ロシア戦線では、赤軍がI-16やI-153を使用しているうちは、圧倒的な優位に立って戦う事ができた。 生産当初は水滴型の密閉式風防を装備していたが、パイロットからの「良好な視界を得たい」、「風を感じないと速度の感覚が掴めない」とのさらなる要望に応える形で、後期型は開放式の風防と、イタリア機特有のくびれがついたファストバックという、時代に逆行するような操縦席に改められている。但し、当時はガラスの製造技術が未熟だった点もあり不純物や気泡が入ってしまう事があったこと、当時の計器は全面的に信用できる性能を持っていなかった為に操縦士が勘や経験に頼らざるを得ない面があった事も確かであり、一概に間違った改造とは言い切れない。 アフリカにスピットファイア等の新鋭機が配備されるようになると、性能的に対抗するのは難しくなった。そして、ドイツ製のダイムラーベンツDB601液冷エンジンを搭載した後継機のMC.202フォルゴーレが登場した1942年以降は、次第に対戦闘機の任務から外され、戦闘爆撃機として利用されることが多くなった。 MC.200は、列強各国の最新戦闘機に比べると、出現時点で既に見劣りしていたが、より高出力のエンジンと出会うことでMC.202フォルゴーレ、MC.205ベルトロと進化し、前者はイタリア軍主力戦闘機として、後者はイタリア軍最優秀戦闘機としてその名を知られることになった事を考えればカストルディ技師の基礎設計の優秀さがわかる。 1943年9月8日のイタリア降伏時には、残存機はほとんどなかった。23機がイタリア南部に飛び、連合国側のイタリア共同交戦空軍 (イタリア語版)でしばらく練習機として使用された。 総生産機数は、1,153機。

2012年10月10日水曜日

XF-88 ヴードゥー(アメリカ空軍戦闘機)(スライド)

情報元:Wikipedia(XF-88 ヴードゥー)

XF-88はアメリカ合衆国のマクドネル社がアメリカ空軍向けに開発していた戦闘機。愛称はヴードゥー (Voodoo)、試作機のみの製造で量産はされなかったが、F-101の原型となった。

1940年代後半に、アメリカ陸軍航空軍は爆撃機を護衛する長距離戦闘機の必要性を認識していた。戦闘機はジェット化の時代になりつつあったが、初期のジェット機は燃料消費率が高く、航続距離が短いという欠点を持っていた。まず、XP-81やXP-83が試作されたが、1944年から1945年にかけて初飛行した。しかし、それらは性能不十分のため、不採用となった。
1946年にアメリカ陸軍航空軍(1947年以降アメリカ空軍)は長距離戦闘機の試作をマクドネル社とロッキード社に依頼することとなった。これは、「侵攻戦闘機計画 (penetration fighter) 」と呼称され、1,500マイル(2,400km)の行動半径を持ち、限定的ながらも地上攻撃が可能で、15,000ポンド以下の重量の機体という要求であった。なお、行動半径の要求は後に900マイル(1,400km)に引き下げられた。競争試作として、マクドネル社はこれに対しXP-88を開発し、ロッキード社はXP-90を開発することとなった。
XP-88として1946年6月20日に試作機の発注が行われた。初飛行は1948年10月20日に行われている。なお、名称は1948年6月11日にXF-88に変更されている。胴体内にターボジェットエンジンを2基搭載しており、主翼付け根に空気取り入れ口を持つ。また、排気口を胴体後部に持つ。排気口よりも後にテイルが伸びており、尾翼もその先に付けられている。主翼は低翼配置で、35度の後退角を持っている。キャノピーは涙滴型となっており、武装は機首に20mm機関銃6門を計画していた。
長大な航続距離を求められたために、胴体を中心に燃料容量は2,273Lが確保されており、他に1,325Lの増槽2個を搭載できた。このため、最大航続距離は2,779kmとなっている。エンジンはウエスチングハウス社製J34-WE-13(推力:1,452kg)が用いられたが、これは推力不足であり、2号機がXF-88Aとして、1949年6月にアフターバーナー付のJ34-WE-22(推力:2,100kg)に換装された。XF-88は比較試験の結果、ロッキードXF-90よりも優秀と判定されたものの、1950年9月に空軍が侵攻戦闘機計画を中止したために2機の試作に終わり、制式採用はなされなかった。
試作1号機は、機首にアリソンXT-38-A-5ターボプロップエンジン(出力:2,500軸馬力)を搭載し、実験機XF-88Bとなっている。XF-88Bは4翅のプロペラを持っており、高速プロペラ実験機として1953年から1957年にかけて各種試験に用いられた。1956年には混合動力プロペラ機として音速を超えることに成功している。この機体は1958年にスクラップにされた。
XF-88のデザインはF-101戦闘機(1951年より開発開始)の基となり、大まかな機体デザインは同じとなっている。また、愛称のヴードゥーも受け継がれた。

XF-88 ヴードゥー プラモデル・模型等(楽天)

2012年10月9日火曜日

XF-88 ヴードゥー(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(XF-88 ヴードゥー)

XF-88はアメリカ合衆国のマクドネル社がアメリカ空軍向けに開発していた戦闘機。愛称はヴードゥー (Voodoo)、試作機のみの製造で量産はされなかったが、F-101の原型となった。

1940年代後半に、アメリカ陸軍航空軍は爆撃機を護衛する長距離戦闘機の必要性を認識していた。戦闘機はジェット化の時代になりつつあったが、初期のジェット機は燃料消費率が高く、航続距離が短いという欠点を持っていた。まず、XP-81やXP-83が試作されたが、1944年から1945年にかけて初飛行した。しかし、それらは性能不十分のため、不採用となった。
1946年にアメリカ陸軍航空軍(1947年以降アメリカ空軍)は長距離戦闘機の試作をマクドネル社とロッキード社に依頼することとなった。これは、「侵攻戦闘機計画 (penetration fighter) 」と呼称され、1,500マイル(2,400km)の行動半径を持ち、限定的ながらも地上攻撃が可能で、15,000ポンド以下の重量の機体という要求であった。なお、行動半径の要求は後に900マイル(1,400km)に引き下げられた。競争試作として、マクドネル社はこれに対しXP-88を開発し、ロッキード社はXP-90を開発することとなった。
XP-88として1946年6月20日に試作機の発注が行われた。初飛行は1948年10月20日に行われている。なお、名称は1948年6月11日にXF-88に変更されている。胴体内にターボジェットエンジンを2基搭載しており、主翼付け根に空気取り入れ口を持つ。また、排気口を胴体後部に持つ。排気口よりも後にテイルが伸びており、尾翼もその先に付けられている。主翼は低翼配置で、35度の後退角を持っている。キャノピーは涙滴型となっており、武装は機首に20mm機関銃6門を計画していた。
長大な航続距離を求められたために、胴体を中心に燃料容量は2,273Lが確保されており、他に1,325Lの増槽2個を搭載できた。このため、最大航続距離は2,779kmとなっている。エンジンはウエスチングハウス社製J34-WE-13(推力:1,452kg)が用いられたが、これは推力不足であり、2号機がXF-88Aとして、1949年6月にアフターバーナー付のJ34-WE-22(推力:2,100kg)に換装された。XF-88は比較試験の結果、ロッキードXF-90よりも優秀と判定されたものの、1950年9月に空軍が侵攻戦闘機計画を中止したために2機の試作に終わり、制式採用はなされなかった。
試作1号機は、機首にアリソンXT-38-A-5ターボプロップエンジン(出力:2,500軸馬力)を搭載し、実験機XF-88Bとなっている。XF-88Bは4翅のプロペラを持っており、高速プロペラ実験機として1953年から1957年にかけて各種試験に用いられた。1956年には混合動力プロペラ機として音速を超えることに成功している。この機体は1958年にスクラップにされた。
XF-88のデザインはF-101戦闘機(1951年より開発開始)の基となり、大まかな機体デザインは同じとなっている。また、愛称のヴードゥーも受け継がれた。

XF-88 ヴードゥー プラモデル・模型等(楽天)

2012年10月6日土曜日

Fw200 コンドル(ドイツ空軍哨戒爆撃機)(スライド動画)

情報元:Wikipedia(Fw200 コンドル)

Fw200 コンドル(Focke-Wulf 200 Condor)はドイツフォッケウルフ社で製造された4発エンジンの長距離輸送機(旅客機)である。第二次世界大戦の勃発により軍に徴用され、長距離哨戒爆撃機として船舶攻撃に活躍した。しかし、戦争の後期には主に輸送任務に回されるようになった。

Fw200 コンドル プラモデル・模型等(アマゾン)
Fw200 コンドル プラモデル・模型等(アマゾン)

2012年10月5日金曜日

F/A-18E/F スーパーホーネット(アメリカ海軍戦闘攻撃機)

情報元:Wikipedia(F/A-18E/F スーパーホーネット)

F/A-18E/Fはマクドネル・ダグラス社が開発したF/A-18A-D ホーネットの発展型戦闘攻撃機である。F/A-18E/Fとは本シリーズの総称であり、その内容は単座型のF/A-18Eと複座型のF/A-18Fからなる。 愛称はホーネットを超越しているという意味を込めて「スーパーホーネット」(Super Hornet) に変更された。A型からD型までのレガシーホーネットと識別するために、「ライノ」(Rhino)という愛称を無線でコールする際に用いている。「レガシーホーネット」・「ライノ」ともに非公式な呼称である。

本機は第4.5世代ジェット戦闘機に分類される、戦闘攻撃機(マルチロール機)である。A-12の開発中止を受けて、既存のF/A-18(A型からD型)の基本設計から全面的に再設計することで開発された。航続距離や兵器搭載能力の向上を図り、機体の大型化やステルス性を考慮した設計変更が行われた。 2001年にF/A-18E/Fが初度作戦能力を獲得し、アメリカ海軍のF-14艦隊防空戦闘機(艦上戦闘機)を更新する形で配備が進められた。イラク戦争等の実戦に参加した。 アメリカ海軍の他にオーストラリア空軍でも採用されている。

F/A-18E/F スーパーホーネット(楽天)
F/A-18E/F スーパーホーネット プラモデル・模型等(アマゾン)

2012年10月4日木曜日

Su-34(ロシア空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(Su-34)

Su-34(スホーイ34、スホイ34;ロシア語:Су-34スー・トリーッツァチ・チトィーリェ)は、ロシア(旧ソ連)のスホーイ社によって開発された、Su-27の発展型の戦闘爆撃機である。 ロシアにおいては、Многофункциональные Самолеты(多機能航空機)、あるいは、Su-24と同様Фронтовые Бомбардировщики(前線爆撃機)と呼ばれている。NATOコードネームはフルバック(Fullback)である。

Su-34 プラモデル・模型等(楽天)
1/72 ウォーバードコレクション WB-43 スホーイSU-34 (アマゾン)

2012年10月3日水曜日

La-9(ソビエト連邦戦闘機)

情報元:Wikipedia(La-9)

La-9(ロシア語:Ла-9ラー・ヂェーヴャチ)は、ソ連で開発された戦闘機である。1946年に初飛行した。

La-9は、ソ連においてLaGG-1以来ラーヴォチュキン設計局が開発を続けてきた一連の戦闘機の完成型といえる機体であった。そこでは、La-7まで金属・木材・布等の混合構造であった機体構造を全金属製にするなど、全面的な改設計を行われていた。また、操縦席もより視界の良い風防に変更されていた。戦力化は第二次世界大戦には間に合わなかったが、Yak-9Pとともに1940年代後半のソ連軍の主力戦闘機となった。しかしながら、1947年にはMiG-15が初飛行に成功するなどジェット化がすぐあとに控えていたため、La-9などのレシプロ戦闘機はそれらと比べればあまり多くは配備されなかった。 La-9の発展型としては、1947年に初飛行したLa-9V(Ла-9В、UTI La-9(УТИ Ла-9)とも呼ばれる)複座練習訓練戦闘機があり、また同年にはジェットエンジン2基を搭載するLa-9RD(Ла-9РД)も飛行した。La-11(Ла-11ラー・アヂーンナツァチ)はLa-9の長距離護衛戦闘機型で、翼端に燃料タンクを取り付けることも出来た。La-9とLa-11はともに朝鮮戦争へ投入され、Yak-9Pとともに中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国軍の航空戦力の主力を担った。また、La-9はルーマニアなどに、La-11はインドネシアなどにも輸出された。日本の近くでは、1950年代、択捉島にソ連軍のLa-11が配備されていた。

2012年10月2日火曜日

P-40 ウォーホーク(アメリカ陸軍戦闘機)スライド動画

情報元:Wikipedia(P-40 ウォーホーク)

カーチス P-40 (Curtiss P-40) は第二次世界大戦期のアメリカ陸軍の戦闘機である。愛称はウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指す言葉) 。 性能的には平凡な機体であったが、実用性が高く常に量産体制が整っていた事もあり、他の戦闘機の補完的存在として広く使われた。 アメリカ陸軍のみならず連合国各国にも多数が供与され、イギリス軍ではC型までをトマホーク (Tomahawk:インディアンの用いた斧)、D型からをキティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所) の名称で装備した。

1938年、P-36の改造型として空冷エンジンを液冷のアリソンエンジンに換装しXP-40として初飛行した。この機体は、最大速度で原型のP-36よりも70kmも速かったので、直ちに量産命令が出てフランスに援助機として振り向ける事となった。しかし1940年のフランス敗戦により、援英機として、トマホークの名でイギリスに供与された。
日中戦争で日本軍の攻勢に苦しんでいた中華民国の蒋介石の妻で、国民党航空委員会秘書長でもあった宋美齢のアメリカ軍への呼びかけにより、中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられたクレア・リー・シェンノートにより、アメリカの「義勇兵」パイロットで編成されたAVG(フライング・タイガース)はP-40を129機装備し、国民党軍を支援するため中国で活動した。
日本軍の九七式戦闘機や九七式重爆撃機、少数の隼(加藤隼戦闘隊)を相手に一撃離脱戦法で戦い、1941年12月20日~翌年6月12日の解散までに「フライング・タイガース」側の記録では撃墜・撃破171機(日本側記録89機)の戦果をあげ、自らは80機を失ったとされた(この「撃墜記録」は、報奨金獲得のために水増しされているとの意見もあり、実際に日本側の被撃墜記録との乖離が激しい)。
また、1941年12月の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時にアメリカの植民地のフィリピンに配備されていた同機は、零式艦上戦闘機や一式戦闘機「隼」をはじめとする日本機の邀撃に当たったが空戦性能に遅れをとり劣勢に立たされた。
連合軍は後に武装の貧弱さと高度性能の改善をはかり、マーリンエンジン搭載に改良したF型を投入し、これを「ウォーホーク」と称した。P-40Fは高々度において、はるかによい性能を発揮した。しかし、あまり多数のマーリンエンジンは入手できなかった。というのは、よりすぐれたノースアメリカン P-51 マスタング にそのエンジンの優先権が与えられていたからである。
エンジンと武装の改良を繰り返し最終のQ型まで総数13,738機生産された。地味ではあるが大戦の前期に連合国各国へ供与された機体は、日本軍やドイツ軍に対して劣勢な中で重要な使命を担った。 なお、大日本帝国陸軍は完全な状態のP-40を数機鹵獲し、内地に送りテスト飛行や研究用に使用したほか、1943年に羽田空港で開催された鹵獲機展示会で一般向けに公開されている。なおビルマ戦線のラングーンでは、少数の鹵獲P-40による臨時の防空隊が飛行第五十戦隊の高野明中尉(陸士53期)以下4名の操縦者と整備隊で結成された。しかし初陣の夜間迎撃では飛行第十二戦隊所属の九七式重爆を誤って不時着大破させるなど、活躍することなく、3ヶ月後の5月26日に解散している。
1943年11月当時大学生だった佐々木陸軍少尉は、陸軍航空技術研究所で鹵獲展示されたP-40に搭乗。防弾装備と、小便を機外に排出するため操縦席に備え付けられた蛇腹状の管を見て、人間工学を配慮した設計に感銘を受けている。
現在、約70機のP-40がアメリカを中心に現存しており、内約30機は飛行可能な保存状態にある。2012年3月には、1942年にエジプトのサハラ砂漠で墜落した英軍のP-40「キティホーク」の残骸が大変良好な状態で発見された。

P-40 ウォーホーク プラモデル・模型等(楽天)
P-40 ウォーホーク プラモデル・模型等(アマゾン)

2012年10月1日月曜日

P-40 ウォーホーク(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-40 ウォーホーク)

カーチス P-40 (Curtiss P-40) は第二次世界大戦期のアメリカ陸軍の戦闘機である。愛称はウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指す言葉) 。 性能的には平凡な機体であったが、実用性が高く常に量産体制が整っていた事もあり、他の戦闘機の補完的存在として広く使われた。 アメリカ陸軍のみならず連合国各国にも多数が供与され、イギリス軍ではC型までをトマホーク (Tomahawk:インディアンの用いた斧)、D型からをキティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所) の名称で装備した。

1938年、P-36の改造型として空冷エンジンを液冷のアリソンエンジンに換装しXP-40として初飛行した。この機体は、最大速度で原型のP-36よりも70kmも速かったので、直ちに量産命令が出てフランスに援助機として振り向ける事となった。しかし1940年のフランス敗戦により、援英機として、トマホークの名でイギリスに供与された。
日中戦争で日本軍の攻勢に苦しんでいた中華民国の蒋介石の妻で、国民党航空委員会秘書長でもあった宋美齢のアメリカ軍への呼びかけにより、中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられたクレア・リー・シェンノートにより、アメリカの「義勇兵」パイロットで編成されたAVG(フライング・タイガース)はP-40を129機装備し、国民党軍を支援するため中国で活動した。
日本軍の九七式戦闘機や九七式重爆撃機、少数の隼(加藤隼戦闘隊)を相手に一撃離脱戦法で戦い、1941年12月20日~翌年6月12日の解散までに「フライング・タイガース」側の記録では撃墜・撃破171機(日本側記録89機)の戦果をあげ、自らは80機を失ったとされた(この「撃墜記録」は、報奨金獲得のために水増しされているとの意見もあり、実際に日本側の被撃墜記録との乖離が激しい)。
また、1941年12月の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時にアメリカの植民地のフィリピンに配備されていた同機は、零式艦上戦闘機や一式戦闘機「隼」をはじめとする日本機の邀撃に当たったが空戦性能に遅れをとり劣勢に立たされた。
連合軍は後に武装の貧弱さと高度性能の改善をはかり、マーリンエンジン搭載に改良したF型を投入し、これを「ウォーホーク」と称した。P-40Fは高々度において、はるかによい性能を発揮した。しかし、あまり多数のマーリンエンジンは入手できなかった。というのは、よりすぐれたノースアメリカン P-51 マスタング にそのエンジンの優先権が与えられていたからである。
エンジンと武装の改良を繰り返し最終のQ型まで総数13,738機生産された。地味ではあるが大戦の前期に連合国各国へ供与された機体は、日本軍やドイツ軍に対して劣勢な中で重要な使命を担った。 なお、大日本帝国陸軍は完全な状態のP-40を数機鹵獲し、内地に送りテスト飛行や研究用に使用したほか、1943年に羽田空港で開催された鹵獲機展示会で一般向けに公開されている。なおビルマ戦線のラングーンでは、少数の鹵獲P-40による臨時の防空隊が飛行第五十戦隊の高野明中尉(陸士53期)以下4名の操縦者と整備隊で結成された。しかし初陣の夜間迎撃では飛行第十二戦隊所属の九七式重爆を誤って不時着大破させるなど、活躍することなく、3ヶ月後の5月26日に解散している。
1943年11月当時大学生だった佐々木陸軍少尉は、陸軍航空技術研究所で鹵獲展示されたP-40に搭乗。防弾装備と、小便を機外に排出するため操縦席に備え付けられた蛇腹状の管を見て、人間工学を配慮した設計に感銘を受けている。
現在、約70機のP-40がアメリカを中心に現存しており、内約30機は飛行可能な保存状態にある。2012年3月には、1942年にエジプトのサハラ砂漠で墜落した英軍のP-40「キティホーク」の残骸が大変良好な状態で発見された。

P-40 ウォーホーク プラモデル・模型等(楽天)
P-40 ウォーホーク プラモデル・模型等(アマゾン)