MC.200 は第二次世界大戦直前から第二次世界大戦中にかけてイタリアで生産された単座の戦闘機である。愛称は“サエッタ(Saetta=稲妻、矢の意)”
1936年のイタリア空軍増強計画(プログラムR)の仕様に基づいてマッキ社が開発した戦闘機が、MC.200である。 設計にはシュナイダー杯で他国の設計者と高速水上機の設計を競ったマリオ=カストルディ(Mario Castoldi)技師が当たった。このシュナイダー杯には、後にスピットファイアを設計するレジナルド=J=ミッチェルをはじめ、各国の精鋭技師達がその腕を競っていた。 この戦闘機の開発にあたって、まず840馬力のフィアットA74AC38空冷エンジンで500km/hを出さねばならなかったことが苦難の始まりであった。また、保守的なパイロット達は極端なまでの視界性能を要求した。これには、前面投影面積が増し、空力的にマイナスとなることは分かっていても、機体の背を猫背のように高くし、操縦席の視点を上げることで応えた。 1937年12月に初飛行し、フィアットG.50、CR.42等、他のプログラムR応募作品中、最優秀機と判定されたため、ただちに生産に入り、1939年、3個大隊(ストロモ)に配備された。 しかし、そのうちの1個大隊は、複葉戦闘機の方を好んだため、CR.42に改変させられてしまい、また他の大隊でも、原因不明の墜落事故が発生したため、一時、飛行停止の処置が取られた。後に事故の原因は、高G機動時の失速と判明し、対策として、主翼の改修が行われたが、これにより、同機の実戦参加は、第二次世界大戦開始から1年近くが経過した1940年9月まで遅れることとなった。 実戦投入後の評判は良好で、当初は単葉戦闘機を拒絶した保守的なパイロットにも受け入れられ、イタリア空軍の主力戦闘機の1つとして、北アフリカ、地中海、ロシア戦線などで活躍し、卓越した運動性能で、ホーカー ハリケーンMk.Iや、カーチスP-40トマホーク等と互角に渡り合った。ロシア戦線では、赤軍がI-16やI-153を使用しているうちは、圧倒的な優位に立って戦う事ができた。 生産当初は水滴型の密閉式風防を装備していたが、パイロットからの「良好な視界を得たい」、「風を感じないと速度の感覚が掴めない」とのさらなる要望に応える形で、後期型は開放式の風防と、イタリア機特有のくびれがついたファストバックという、時代に逆行するような操縦席に改められている。但し、当時はガラスの製造技術が未熟だった点もあり不純物や気泡が入ってしまう事があったこと、当時の計器は全面的に信用できる性能を持っていなかった為に操縦士が勘や経験に頼らざるを得ない面があった事も確かであり、一概に間違った改造とは言い切れない。 アフリカにスピットファイア等の新鋭機が配備されるようになると、性能的に対抗するのは難しくなった。そして、ドイツ製のダイムラーベンツDB601液冷エンジンを搭載した後継機のMC.202フォルゴーレが登場した1942年以降は、次第に対戦闘機の任務から外され、戦闘爆撃機として利用されることが多くなった。 MC.200は、列強各国の最新戦闘機に比べると、出現時点で既に見劣りしていたが、より高出力のエンジンと出会うことでMC.202フォルゴーレ、MC.205ベルトロと進化し、前者はイタリア軍主力戦闘機として、後者はイタリア軍最優秀戦闘機としてその名を知られることになった事を考えればカストルディ技師の基礎設計の優秀さがわかる。 1943年9月8日のイタリア降伏時には、残存機はほとんどなかった。23機がイタリア南部に飛び、連合国側のイタリア共同交戦空軍 (イタリア語版)でしばらく練習機として使用された。 総生産機数は、1,153機。
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