2012年12月28日金曜日

テジャス(インド空軍 戦闘機)

情報元:Wikipedia(テジャス)

テジャス(Tejas)は、アメリカ等の技術協力を受け開発されているインドの国産戦闘機である。LCA(Light Combat Aircraft、軽戦闘機)の名称も知られている。1980年代から開発を開始しており、2011年に実用化した。MiG-21の代替を予定しているが、かつて1998年の核実験に対する米国の経済制裁を受けたことや技術不足などの要因が重なり開発が難航している。
なお、「テジャス」とはサンスクリットで「火」を意味し、「光り輝く」との意味も備える。

インドは1960年代にマルートを開発して以降国産ジェット戦闘機の開発をしてこなかったが、1985年に当時のインド首相ラジーヴ・ガンディーによりアメリカと協力して新型の戦闘機を開発することが発表された。開発計画はLCA(Light Combat Aircraft)と命名された。搭載エンジンは初期型に米国GE(現在は傘下のGE・アビエーション)製F404ターボファンエンジン、後期型に国防研究開発機構(Defence Research and Development Organisation、DRDO)傘下のガスタービン研究機関(Gas Turbine Research Establishment、GTRE)が開発する国産のGTX-35VS型「カヴェリ(Kaveri)」エンジンの搭載を予定している。インド海軍向けの艦上機型の開発も行われており、こちらは2008年の初飛行を目指している。
開発参加企業・組織には、インドのHAL(Hindustan Aeronautics Limited、ヒンドゥスタン・エアロノーティクス)、インド航空開発庁(Aeronautical Development Agency、ADA)、国防研究開発機構を始めとし、さらに米国のロッキード・マーティン、ゼネラル・エレクトリック、フランスのスネクマなどが加わっている。
元々1993年の初飛行を目指して開発されていたが、当初56億ルピーと予定していた開発費が250億ルピーに増大した上に、計画がかなり遅延した事からMiG-21bisの近代化に213億5000万ルピーを使わざるを得なくなってしまった。
さらに1998年の核実験の制裁としてアメリカがLCAの開発から撤退し、アメリカから導入予定だった機体制御システムや各種主要コンポーネントの輸入が停止され、LCAに搭載するためのカヴェリエンジンの技術支援にきていたGEの社員も帰国した事でさらに計画に遅延が出ることになった。
前述の国防研究開発機構の一部の関係筋によれば、「核実験さえなければ、初飛行は1998年12月に成功していただろう」とも言われていたが、結局初飛行に成功したのは2001年であった。
2001年以降の対テロ戦争でインドの経済制裁が解除された事により、アメリカのGE社はF404エンジンを試作機用に8基(F404-GE-F2J3)、量産機用に41基(F404-GE-IN20)供与している。当初量産分の2個飛行部隊分の機体にはF404を搭載し、それ以降の機体には完成し次第国産のカヴェリエンジンを搭載する予定である。2007年度中に28機のLCAを生産することが決定しており、エンジンの調達数からも40機前後の生産は確定的だと思われる。
インド空軍はMiG-21の後継として最終的に200機前後のLCAを調達する予定であり、2009年から2010年にかけて南部のタミル・ナードゥ州にLCAの飛行部隊を配備し始めるとの見方が出ている。
しかしカヴェリエンジンの開発は未だ難航しており、インド空軍はLCAが予定通りのスケジュールで完成するかどうかについて尚疑いを持っている。この事から今後大幅に調達数を減らすことも考えられる。
また、カヴェリエンジン調達までの繋ぎにユーロジェット・ターボ製EJ200及びGE製F414の調達を検討、GEがユーロジェットより安い価格を提示したため99基のF414の調達が決定した。

2012年12月27日木曜日

F-8 クルセイダー(アメリカ海軍・海兵隊)

情報元:Wikipedia(F-8 クルセイダー)

F-8とはアメリカ合衆国の航空機メーカー、チャンスボート社が開発し、アメリカ海軍とアメリカ海兵隊を中心にフランス海軍とフィリピン空軍で使用された艦上戦闘機である。愛称はクルセイダー(Crusader、十字軍の戦士)。 開発当初の機種名はF8Uであるが、1962年の機種名整理で命名規則が変更されたため、F-8となった。

開発は1952年にアメリカ海軍が超音速制空戦闘機を要求したことから始まった。この要求に応じたチャンスボート社は数々の新機軸を盛り込んだ機体を開発した。試作初号機XF8U-1は1955年3月25日初飛行および超音速飛行に成功し高性能を示したため、海軍に採用されることとなった。直ちに量産が開始され、生産型F8U-1は1955年9月に初飛行している。艦上機としては世界初の超音速戦闘機である。
F-8は当時の陸上機をも凌ぐ高性能を誇り、また極めて信頼性が高く、扱いやすかった。例えば同じエンジンを搭載する空軍のF-100戦闘機が最高速度マッハ1.3だったのに対し、本機はマッハ1.7に達した。これはインテークの上から前方に突き出した機首コーンが偶然にもショックコーンの役目を果たし、エンジンの性能を最大限に引き出した事による。B型以降は機首コーンはレーダーを搭載したレーダードームとなり大型化しているが、はからずもショックコーンとしての能力も向上している。
特徴としては極めて視界に優れている事が挙げられる。コックピットは視界を確保するため胴体の先端に配置された。インテークも機首下面にあり視界を妨げないようにしている。また離着艦の際の機首上げ角を抑えるため、前桁に取り付けられた油圧アクチュエータと後桁のピボットによって、高翼配置の主翼の仰角を動かす唯一のシステムを持ち、運用時の安全性を大幅に向上させた。これは視界不良に悩まされたチャンスボート社の前作F7Uカットラスの反省があったためだが、むしろ過剰装備だったと評されることもある(またカットラスは飛行性能を追求し新機軸を盛り込み過ぎ離着艦性能が極端に悪く、前述の視界の悪さとあいまって着艦時の事故が多発し、同様の問題を抱えた僚機F3Hディーモンと共に「未亡人製造機」と称された)。なお後に本機を母体に開発された亜音速艦上攻撃機A-7 コルセアIIでは、主翼ハードポイント(重量強化点、パイロンを取り付けられる場所)追加のため可変仰角装置は省かれている。
1957年から部隊配備が開始され1965年までに各形式合わせて1,259機生産された。のちにアメリカ海軍の空母機動部隊の運用方針が変化し、艦載戦闘機にも多用途性が求められるようになった。ジェット戦闘機の実用化以降のアメリカ海軍は、ジェット戦闘機を純戦闘機として、レシプロ戦闘機を戦闘爆撃機として運用しており、チャンスボート社は1950年代までF4U戦闘機の生産を続行していたのだが、さすがにレシプロ機は性能的に限界に達し、ジェット戦闘機に戦闘爆撃機としての能力が要求されるようになったのである。この趨勢の中、同時期に採用されたF11F タイガーはこの要求に対応出来ずに短命に終わってしまったのとは対照的に、F-8は一定の汎用性も兼ね備えていたため大量に生産された。また離着艦能力に優れていた事により、アメリカに比べて小型の空母しか保有しないフランス海軍においても採用された。

部隊配備は1958年3月から開始された。その後、F-8はベトナム戦争に投入された。アメリカ海軍は他に最新のF-4 ファントムIIを投入していたが、ミサイル万能論の影響で航空機関砲を搭載せず空対空ミサイルのみに頼り、爆撃能力を重視し機動性をある程度犠牲にしていた。こうした中、軽快な運動性と4丁の20mm機関砲を搭載していたF-8は「最後のガンファイター」と呼ばれ、多数のMiG-17等の敵機を撃墜し、一時期はF-4の撃墜数を上回ったこともあった。そのことから「ミグ・バスター」とも呼ばれた。ただし、機銃のみによる撃墜は無かった(2機をミサイル、ロケット弾との併用で撃墜。なお、F-8に搭載されたコルトMk.12は信頼性に乏しかったともされる)。
ベトナム戦争全体を通し、アメリカ空海軍海兵隊機種で最高のキルレシオ(撃墜対被撃墜比率)、8:1を持つ。また撃墜数はF-4の半分(18機)であったものの、作戦および空中戦への延べ参加機数は遥かに少なかったことを勘案すると、大変効果的に敵戦闘機を抑えたと見ることができる。
ただし本機がF-4と共に1960年代のアメリカ海軍の主力たり得たのは、本機が、第二次世界大戦当時から使い続けられていたエセックス級航空母艦において運用可能(F-4は運用不可能)であったからである。ベトナム戦争が無く、エセックス級空母がもっと早くに退役していたならば、本機も早々に退役していたものと想像される。 ベトナム戦争の終結後、エセックス級空母の退役により戦闘機型のF-8は1976年までに現役を退いたが、偵察型のRF-8Gについては、RA-5Cの退役~F-14偵察兼務型の配備までのつなぎ役としてその後も長期間配備され、アメリカ海軍から最後の機体が退役したのは1987年であった。最後までF-8を第一線に配備し使用していたフランス海軍のクレマンソー級航空母艦に搭載されていた機体も、1997年の「クレマンソー」退役、2000年の「フォッシュ」退役(ブラジル海軍に売却)に伴い退役した。
外国での採用は他に、フィリピン空軍がアメリカ海軍からの退役した機体を修繕して用いていた。防空任務の他に、機銃・通常爆弾・ロケット弾による対地攻撃にも従事していた。しかし、エドゥサ革命の混乱にともなう禁輸措置やスペアパーツ不足(晩年はヴォート社の在庫自体が底をついていた。革命後、同社による現地でのオーバーホールにおいては現地で調達したベニヤ板とアルミ箔を用いて木製の部品を作り、損耗した金属製の純正部品の代用とするなど苦肉の策がとられた)、資金不足がたたって稼働率は次第に低下。1991年のピナトゥボ山噴火によりダメージを受けたのを機に廃棄された。

2012年12月25日火曜日

F-11 タイガー(ブルーエンジェルス)

情報元:Wikipedia(ブルーエンジェルス)

ブルーエンジェルス (Blue Angels)はアメリカ海軍所属のアクロバット飛行隊。現在の本拠地はフロリダ州のペンサコーラ海軍航空隊基地。通称「ブルーズ (Blues)」。

昔から、アメリカ空軍のアクロバット飛行チーム「サンダーバーズ」とライバル関係にあり、共に世界でも高レベルのアクロバット飛行能力を誇る。

情報元:Wikipedia(F-11 タイガー)

F-11はグラマン社が製造した1950年代後半のアメリカ海軍の艦上戦闘機である。愛称はタイガー(Tiger)。1962年に軍用機の呼称が陸海空軍で統一される前の機種記号はF11Fであった。

F9F-6 クーガーは、優秀な戦闘機であったが、水平飛行で音速突破ができないなど速度性能には問題があった。そのため、1952年4月にF9F-8として本格的な超音速戦闘機がアメリカ海軍より発注された。なお、1952年6月にはチャンスボートF8Uの契約も行われていることから、F8U開発の保険的な意味合いも大きかった。機体がF9Fとは全く異なるが、F9F-8の名称で開発開始されたのは、予算対策の目的に既存機の改修の形をとったためである。なお、開発途中でF9F-9に名称が変更されている。F9F-9は1954年7月に初飛行し、1955年4月にF11F-1の名称が与えられた。
チャンスボートF8U、マクダネルF4Hと海軍の主力機の座を争ったが、元々は軽量戦闘機であったはずが、開発の過程で改良を重ねるうちに重量が増加してしまい、それと非力なエンジン(ライトJ65-W-18 推力 3,380Kg)の組み合わせは、速度(1,210km/h)・加速・上昇性能において劣っていた。加えて全天候性能や多用途性能にも欠けていた。そのため生産数は196機に止まった。
実戦部隊への配備も1957年から1961年までと短い。ただし、離着艦性能、操縦性、運動性においては非常に優れていたので、アメリカ海軍の曲技飛行隊「ブルーエンジェルス」の使用機になった。初期生産型と機首部分を延長した後期生産型がある。
F11F-1は1962年のアメリカ三軍の軍用機呼称の統一に伴ってF-11Aと改称された。

前述の通り、F11Fは機体重量に比べてエンジンが非力だったのが弱点であった。これを改良し、エンジンをより強力なGE J-79(推力 4355Kg)に変えた性能向上型F11F-1Fスーパータイガーが開発された。最高速度 2,253Km/hを記録、さらには23,449mの世界高度記録を樹立したが、反面エンジンの大型化により燃料消費が増大したことで航続距離が減少し、さらに翼面荷重も高くなったことから離着陸性能も悪化し、海軍の興味をひかず採用にはいたらなかった。F11F-1Fは試作機2機の生産にとどまった。F11F-1Fは1962年にF-11Bと改称された。
そこでグラマンは、NATOや、F-86の後継戦闘機を選定していた日本の航空自衛隊に、販売代理店の伊藤忠商事とともに売込をはかった。日本向の機体はグラマンの社内名でG.98J-11と呼ばれ、F11F-1Fの2号機を改造したデモンストレーターが製作され(※G-98そのものではない)、その操縦性と安全性をセールスポイントとして、日本では採用が一旦内定した。しかし、だが、G-98の内定に対して「汚職の疑いがある」また「設計図だけの幽霊戦闘機」(デモンストレーターは製作されたが、実機はまだ製作されていなかった)との批判が起こり、関係者からの事情聴取や証人喚問にまで発展し、白紙化した(第1次FX問題)。
前述の通りF11F-1Fスーパータイガーはエンジンの換装によりさまざまな問題が生じたが、グラマンはこれを改良して自衛隊の要求に合わせるとしていた。しかしその場合の開発資金は当然日本一国で負担しなければならず、対立候補であったロッキードF-104と比べると、生産も運用も困難となることがすでに1957年の調査団の報告書でも指摘されていた。
源田実航空幕僚長を団長とする官民合同の調査団が再び訪米し、二ヵ月半にわたる調査の結果提出された報告書に基づく再選定の結果、結局F-104に敗れる事となった。

2012年12月24日月曜日

La-15(ソビエト連邦戦闘機)

情報元:Wikipedia(La-15)

La-15(ロシア語:Ла-15ラー・ピトナーッツァチ)は、ソ連のラヴォーチキン設計局で開発されたジェット戦闘機である。初飛行は1948年。DoDが割り当てたコードネームはType 21。

La-15は同時期に開発されたMiG-15によく似た外観をしているが、MiG-15がダクトの中央を主翼が突き抜けるという中翼構造を採っているのに対し、本機は高翼構造にすることによって後退翼における強度問題を解決している。La-15は航空機「174」、航空機「174D」として開発されたため、試作機はLa-174などとも呼ばれている。また、複座練習機型は航空機「180」として開発された。エンジンはMiG-15が当時ソ連で最も強力であったロールス・ロイス・ニーンの国産型であるRD-45ターボジェットエンジンを採用したのに対し、La-15は小型で非力なダーウェントの国産型RD-500を選択させられた。そのためLa-15は十分な性能が得られずMiG-15に主生産機の座を譲り渡すことになったとも言われるが、エンジン選択の段階からして恐らくは政治的理由が絡んでいたと思われる。結果La-15は迎撃戦闘機として数百機が生産されたにとどめられた。第二次世界大戦時以来ソ連空軍の主力戦闘機を生産し続けてきたラヴォーチキン設計局の実用機も本機が最後となり、1950年代以降、特に戦闘機におけるミコヤン・グレヴィッチ設計局の独占的構造が確立されていった。

2012年12月7日金曜日

ビッカース ウェリントン(イギリス空軍 爆撃機)

情報元:Wikipedia(ビッカース ウェリントン)

ビッカース ウェリントン(Vickers Wellington)は、第二次世界大戦初期のイギリス空軍で使用されたヴィッカース社製の爆撃機である。ヴィッカース社独特の大圏構造の機体を持つ爆撃機で、第二次世界大戦初期のイギリス空軍において爆撃機部隊の柱として活躍し、「ウィンピー」(Wimpy)の愛称で親しまれた。1943年秋以降は爆撃任務から外され、沿岸哨戒や輸送任務で使用された。

本機の開発は、イギリス空軍から出された新型爆撃機の仕様に従って1932年9月から開始された。原型機は1936年6月に初飛行しその年の航空ショーで最新鋭機として紹介されたが、翌年墜落事故を起こして失われた。しかし空軍は、この機体の生産型を180機発注し、量産1号機MK.1は1937年12月に初飛行した。
ウェリントンは、角張った胴体を持つ双発機で、胴体、翼等の主要部分はヴィッカース社独特の大圏構造で作られていた。これは、金属製の細い素材を籠状に編み、その上から羽布を張った構造で、頑丈かつ軽量で多少の敵からの攻撃でも大きな破壊から免れることが出来るという利点があった。反面、製造工程が複雑になることや、気密性に劣るため高高度での活動には不向きである等の欠点もあった。最初の量産型は、機首と機尾に動力式の連装式の銃座を持ち、爆弾は腹部の爆弾倉に2000kg搭載できた。エンジンは、初期の型では1000hpのブリストル ペガサスだったが、その後ロールス・ロイス マーリン10やブリストル ハーキュリーズ3に強化されている。 1938年から部隊配属が開始され、第二次世界大戦開戦時には6個の飛行隊に配備されていた。1939年9月にブルンスビュッテル(Brunsbüttel)に爆撃を行ったのが本機の初陣で、その後暫くは昼間爆撃に用いられた。しかし、同年12月の作戦において作戦参加機の半分以上を喪失もしくは大破させられるという損害を被ったことをきっかけにして、本機は夜間爆撃任務に回されることになった。
夜間爆撃機としては本機はよく働き、大戦前半にドイツ、イタリアの工業地帯爆撃に活躍した他、中東、北アフリカ、ギリシャ方面でも活動した。また、1942年にはインドにも派遣され、イギリスの極東における最初の長距離爆撃機となった。
大戦後半になると爆撃機として使用するには性能的には苦しくなり、1943年秋以降は沿岸航空隊における哨戒任務や輸送、爆撃練習などで利用されるようになった。機体の容量に余裕があり、扱いやすく、長時間飛行できる機体だったため、これらの任務のための専用型の生産が続けられ、最後の生産機が生産ラインを出たのは大戦終結後の1945年10月だった。

2012年12月6日木曜日

MiG-27(ソビエト連邦空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(MiG-27)

MiG-27(ミグ27;ロシア語:МиГ-27ミーグ・ドヴァーッツァチ・スィェーミ)は、ソ連のミグ設計局の開発した戦闘爆撃機である。MiG-23前線戦闘機のソ連国内向け戦闘爆撃機型として製作された。1980年代、スホーイ設計局のSu-17M3/4とともにソ連空軍戦闘爆撃機部隊の中核を担った。北大西洋条約機構(NATO)の使用するNATOコードネームはフロッガー (Flogger)。 なお、このページで扱うMiG-27シリーズはMiG-23の戦闘爆撃機型であり、その輸出型はMiG-23BNと呼ばれている。このように、MiG-23シリーズとMiG-27シリーズは併せて考えるべきである。MiG-23/27シリーズの全体についてはMiG-23 (航空機)を参照のこと。

1960年代、ソ連では1950年代より開発してきた大型のSu-7BKL戦闘爆撃機が空軍の対地攻撃力の中核となっていた。また、小型のMiG-17F前線戦闘機やMiG-21前線戦闘機シリーズなども簡易な戦闘爆撃機として運用されていた。しかしながら、これらの機体はいずれも充分な能力を有しているとは言えず、1960年代末には新たな戦闘爆撃機に対する要求が各設計局に出された。スホーイ設計局では従来のSu-7シリーズを可変翼化したSu-17シリーズを開発し、それまでの領分を確保することに成功した。一方、MiG-15以降、小型の前線戦闘機の開発が領分となっていたミグ設計局では、以後の可能性を拡げるため、軍の要求に対し当時開発中であったMiG-23S前線戦闘機を改設計し、大型のSu-17に匹敵する戦闘爆撃機を開発することとした。

攻撃機型MiG-23の開発
MiG-23Sの戦闘爆撃機化は、まずエンジンをS・K・トゥマーンスキイ設計局のR-27F2M-300からより出力の大きなA・M・リューリカ会社のサトゥールンAL-21F-3に換装することから始められた。この機体はMiG-23B(МиГ-23Бミーク23ベー)または32-24と呼ばれ、機首のレーダーを撤去し代りにソーコル23S照準システムやフォーンレーザー測距儀などの対地攻撃用の新システムを装備した。初飛行は1971年に行われた。生産はモスクワ機械製作工場(MMZ)「ズナーミャ・トルダー(労働の旗)」で行われ、1972年から1973年の間に24機が製作された。

MiG-27とMiG-23BNの開発
しかしながら、MiG-23Bは機体強度等に致命的な欠陥が多くあったMiG-23Sを基に製作されていたためそれ同様に欠陥があり、戦闘機型MiG-23の改良を待ってすぐに新しい機体の設計に取り掛かる必要があった。その結果開発されたのがMiG-23BM(МиГ-23БМミーク23ベーエーヌ)または32-25と呼ばれる機体で、1972年に初飛行を行った。この機体は戦闘機型の改良型であるMiG-23M同様、前縁に面積を増すため張り出しを設けてドッグトゥースを形成させた主翼を有し、アフターバーナーを簡略化したトゥマーンスキイR-29B-300エンジンを搭載した。また、空気取り入れ口のランプも固定化されており、これらの改装により機体構造が簡略化し、軽量化されていた。この機体はMiG-27(МиГ-27)として1973年より生産に入り、1977年までに360機がイルクーツク航空機工場で製作された。MiG-23BMには前線偵察機型も開発されておりMiG-23R(МиГ-23Рミーク23エール)と呼ばれたが、結局前線偵察機としてはSu-17M3R/4Rが使用されることとなり、MiG-23Rは量産されなかった。また、空気取り入れ口を従来の可動式としたままの32-24B(32-24Б)はMiG-23BN(МиГ-23БНミーク23ベーエーヌ)としてMMZ「ズナーミャ・トゥルダー」工場で生産に入り、輸出向けに多数が製作された。なお、MiG-23BNに対しては1998年にMiG-23B-98(МиГ-23Б-98)近代化改修規格が提示されている。

MiG-27の発展
MiG-23BMの発展型として開発された32-26は、MiG-23BK(МиГ-23БКミーク23ベーカー)として1974年12月30日に初飛行を行った。この機体は1976年よりイルクーツク航空機工場で生産が始められ、1982年までに197機が製作された。部隊配備後の1980年、この機体に対しMiG-27K(МиГ-27Кミーク27カー)と名称を改めるよう指示が出された。また、1976年から1977年の間にMiG-27R(МиГ-27Рミーク27エール)または32-35と呼ばれる偵察機型が開発された。この機体は電波探知装置のコンテナーを機体下に搭載するものであったが、結局実際に生産されたものはなかった。
次に生産されたのはMiG-27M(МиГ-27Мミーク27エーム)または32-27と呼ばれた機体で、これはMiG-27Kが高価過ぎたことから開発された簡略型であった。初飛行は1976年に行われ、ウラーン・ウデー航空機工場で1978年から1983年の間に162機が生産された。また、合計304機の32-25も1983年から1987年の間に32-27規格に改修され、MiG-27D(МиГ-27Дミーク27デー)と称された。
1986年に初飛行したMiG-27ML(МиГ-27МЛミーク27エームエール)または32-29(32-29Л)と称される機体はインド向けに開発されたMiG-27の輸出型で、インドではMiG-27Mバハドゥール(MiG-27M Bahadur)と呼んで使用している。また、MiG-27L(МиГ-27Лミーク27エール)と書かれることもある。インドでは他にMiG-23BNも併用しており、これらは第三次印パ戦争でも使用されたSu-7BMKの代替である。インドでは今後もMiG-27を運用する方向で、2008年にはロシアと共同でエンジンをAL-31Fに換装した改修型を完成している。

2012年12月4日火曜日

MiG-23(ソビエト連邦空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(MiG-23)

MiG-23(ミグ23;ロシア語:МиГ-23ミーグ・ドヴァーッツァチ・トリー)は、ソ連のミグ設計局が開発した戦闘機。MiG-21の後継機となり、アルチョム・ミコヤンが最期に手がけた機体であった。北大西洋条約機構(NATO)の使用するNATOコードネームはフロッガー (Flogger)。
1967年4月3日(23-01のもので、この機は可変翼機ではない)に初飛行した。また、MiG-27(МиГ-27)はMiG-23の発展型で、ソ連国内向けの戦闘爆撃機として開発された。

1960年代にミグとスホーイ両設計局がSTOL用リフトエンジン搭載有尾翼デルタ翼機と可変翼機の製作を指示されたのが始まりである(ミグは1960年代初めから可変翼機の研究をしていたが、当時は技術的に困難であった)。ミグは新型機を製作するにあたり、リフトエンジン2基を搭載する実験機23-31(MiG-21PD)を1966年に製作し、この機体のデータを基にしたSTOL機23-01(MiG-23PD)と、可変翼の23-11(MiG-23)を同年に製作した。翌年の実験で23-01が機体重量と空間の限界や整備面でこの方式が実用的でないことが判ると、23-11が採用された。
可変翼は、アメリカ合衆国の開発したF-111戦闘攻撃機(戦闘爆撃機と呼ばれることもある)やF-14戦闘機、ヨーロッパで共同開発されたトーネード攻撃機など1960年代後半から1970年代前半の軍用機に共通する特徴で、このような航空機は可変翼機と呼ばれている。この時期の軍用機は敵に滑走路を破壊された場合の対処方法を重要視して設計されており、離着陸距離を短縮できる可変翼機や滑走路を必要としないVTOL、STOL機に大きな関心が集まっていた。可変翼は、高速で飛行する際は翼を後退させて抵抗を減らし、離着陸や低速飛行の際は前に広げて揚力を大きくすることができた。MiG-23も可変後退翼の採用によって、離着陸距離を短縮している。 ただしF-14の可変後退翼はさらに進歩しており、後退角や後縁フラップを自動コントロールにして空中格闘戦能力が大幅に向上していた。一方後退角を手動で制御するMiG-23の前期型(MiG-23Mなど)までは格闘戦能力の向上効果は無かった。MiG-23の可変翼は、油圧で後退角度(16度から72度)が変わるものであったが、戦闘時には主翼を45度の位置に固定させるようになっていた。しかし後期型では改善され、戦闘時の後退角度はMiG-23MLDでは33度に変更され、後退角度制御こそ手動のままであるが、前縁フラップは自動制御になり、格闘性能を向上させている。
MiG-23は本来、前線の制空権を確保するための前線戦闘機であるため、空中戦のみならずある程度の対地攻撃能力も持つよう設計されていた。MiG-23ML等後期型では種別は多用途戦闘機に変更されており、アンゴラではMiG-23MLAの対地攻撃能力に対して高い評価が出されている。また、特に対地攻撃を重視した派生型もあり、その内ソ連空軍向けに開発された機体はMiG-27と呼ばれている。一方その輸出向けの機体の名称はMiG-23のままであり、名称の変更の有無はソ連内の予算獲得問題の関係(名称が違うと予算が付きにくい)であったと言われている。

2012年11月21日水曜日

Yak-9 (ソビエト連邦空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(Yak-9 )

Yak-9 (Jak-9;ヤク9;ロシア語: Як-9ヤーグ・ヂェースャチ) は、第二次世界大戦時にヤコヴレフ設計局が開発したソ連空軍の主力戦闘機のひとつ。戦後、北大西洋条約機構 (NATO) によって付けられたNATOコードネームでは「フランク」 (Frank) と呼ばれた。 東欧を中心に1960年代初頭まで配備されていた。

2012年11月16日金曜日

P-51H(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-51H マスタング)

P-51は、アメリカのノースアメリカンにより製造されたレシプロ単発単座戦闘機である。愛称はマスタング (Mustang)、あるいはムスタング。
第二次世界大戦の半ばにイギリスのロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載した後は、大きな航続力、高高度性能、運動性を与えられ、多くの戦功を残し、最高のレシプロ戦闘機とみなされている。

2012年11月14日水曜日

P-51 マスタング(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-51 マスタング)

P-51は、アメリカのノースアメリカンにより製造されたレシプロ単発単座戦闘機である。愛称はマスタング (Mustang)、あるいはムスタング。
第二次世界大戦の半ばにイギリスのロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載した後は、大きな航続力、高高度性能、運動性を与えられ、多くの戦功を残し、最高のレシプロ戦闘機とみなされている。

2012年11月12日月曜日

メッサーシュミット Me262(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミット Me262)

メッサーシュミット Me262 (Messerschmitt Me 262)は、第二次世界大戦末期にドイツ空軍が使用したジェット戦闘機、爆撃機である。愛称は「シュヴァルベ(Schwalbe、ドイツ語でツバメの意 )」。世界初の実戦配備および実戦を行ったジェット機である。

第二次世界大戦末期のドイツ空軍の最終兵器として登場したイメージが強いが、ジェット戦闘機の開発自体は開戦前の1938年から始まっていた。ドイツでは翌1939年、ハインケル社がジェット機の初飛行に成功し、ターボジェットエンジンの製作がBMW社及びユンカース社で始まっていた。 1939年6月7日、メッサーシュミット社からP1065計画が立案され、その設計の完成度は高かったが、後に生産された機体とは外見がだいぶ異なっていた。予定されていたBMW003ジェットエンジンが開発中に寸法が大型化。そのまま取り付けると機体の重心が狂ってしまい危険だった。その解決策として、エンジン外側の主翼を後方に18.5度曲げて後退角を付けた。本機は最初から後退翼機として設計されたというよりは、結果としてそうなったという方が相応しい。浅い後退角は後退翼効果を得るのには不十分で、重心位置改善以外に性能向上に貢献したとは言えない。エンジン装着位置も、当初案では翼桁の間に設置する予定であったが、それは簡単ではなかったので、主翼下に装着位置を変更。このあたり、当時未知のジェット機を開発する過程での試行錯誤だろう。さらに正面から見た胴体形状を、楕円形から上向き三角形に変更し、武装も20mm砲3門から30mm砲4門へ強化するなど、様々な設計変更を余儀なくされた。
1941年4月18日、試作1号機であるMe 262 V1の試験飛行が試みられた。当時BMW 003エンジンが実用レベルに達していなかったため、やむなくレシプロエンジンのユンカース社製Jumo 210Gを機首に装着して行われ、操縦性は極めて良好と判明。BMW003エンジンが搭載された後も、安全上の理由で機首Jumo 210Gエンジンはそのまま残したがこの措置は妥当だった。
1942年3月25日、Me 262 V1のジェットエンジンを用いての初飛行中、エンジンが2つとも停止し、機首のJumo 210Gだけで緊急着陸した。信頼性の低いBMW 003に代わって、ユンカース社のJumo 004Aエンジンに換装、また機首のレシプロエンジンを撤去し、武装としてMG 151/20機関砲3門が搭載された。本機は1944年6月7日の試験飛行で損傷して飛行不能となり、その役目を終えた。試作2号機であるMe 262 V2では当初からJumo 004 Aが搭載され、1942年10月1日に初飛行に成功、しかし翌年4月18日に事故で失われている。 試作3号機であるMe 262 V3は、1942年7月18日、ドイツ南部のギュンツブルク地区・ライプハイム空軍基地において、フリッツ・ヴェンデルの操縦によりジェットエンジンのみでの初飛行に成功し、ジェット機として新たなスタートをきった。しかし、更なる改良が加えられた。エンジン内側の主翼にも後退角が付き、前縁スラットを追加。また当初尾輪式だった降着装置は、試作5号機Me 262 V5からP.1065案同様の前輪式に変更された。尾輪式だった理由は、三車輪式が「アングロアメリカの発明品であるから」というナチス的な理由によるものであった。このため、離陸速度に達しても迎角が大きく離陸できず、ブレーキを軽く踏むことで機を水平にすることが必要であった。この間もテスト飛行は続けられ、1942年中に機体の調整は完了していたが、Jumo 004エンジンは依然不安定で、量産には手間取った。
1943年になると、試作4号機が空軍首脳部に披露され、同年5月22日にアドルフ・ガーランド少将(当時)がMe 262 V4に試乗。これを「天使が後押ししているようだ」と絶賛し、レシプロ機からの転換を言明した。さらにJumo 004B-0を搭載し前輪式降着装置を油圧引込式に改良した試作6号機Me 262 V6が、7月25日に航空相ヘルマン・ゲーリング元帥とエアハルト・ミルヒの前でデモンストレーション飛行を行った。
1943年11月26日、インスターブルク航空センターで地上展示された空軍の各種新兵器の中にあった、Me 262 V6を見た総統アドルフ・ヒトラーは、ゲーリングに対しこれは爆弾の搭載が可能であるかと質問した。ゲーリングの(事前にメッサーシュミット博士と打ち合わせ用意していた)理論的に可能であるとの解答を受け、ヒトラーは「電撃爆撃機が誕生した!」と宣言し、Me 262を高速爆撃機として生産するよう命じた。しかし、これらはMe262の高高度での高速性という性能をもつ飛行機の用途としては無意味な提案であった。当時、連合国軍の大規模爆撃がドイツ各地に被害を与え、ヒトラーとしては、それに対する報復と、ヨーロッパ大陸への侵攻に備え集結していた連合軍への攻撃を考えていたのである。(当時、世界の戦闘機の主任務用途は空対空戦闘から地滑り的に戦術支援への転移を生じており、ヒトラーは慧眼にもこの動向を洞察していたという声もある。) 後のガーランドの談によると、彼はジェット機開発計画の初期段階である1942年春の会議ではMe 262を戦闘機とするか爆撃機とするか、一面的に開発を進めるべきではないと発言し、メッサーシュミット博士も同意見であったという。ゲーリングがヒトラーに対して爆撃機として使用可能であると答えたのも、機種全体の開発計画を推進させるためのものであったのだが、これは結果的に戦闘機としての実戦投入を遅らせるだけの結果となった。
ガーランドはMe 262を戦闘爆撃機として運用することを推進するディートリッヒ・ペルツと対立しながらも、本土防空用戦闘機としての編成を進めていた。しかしヒトラーはこれを拒否、ミルヒからの解答でMe 262が戦闘機型のみ作られていることを知って激怒し、1944年5月23日の会議で、Me262を戦闘機と呼ぶ事を禁じ、爆撃型のみを生産させた。ただし1944年6月の会議の記録では、それはジェット爆撃機であるAr 234の生産が軌道に乗るまでの暫定的なものとされている。そして空軍上層部との対立が激しくなったガーランドは、後に戦闘機隊総監の地位を解任された(しかし、大戦末期の1945年2月、彼はMe262装備の部隊の指揮官となっている)。

2012年11月10日土曜日

ビッカース ヴァリアント(イギリス空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(ビッカース ヴァリアント)

ビッカース(ヴィッカース) ヴァリアント (Vickers Valiant) とは、イギリスの航空機メーカー、ヴィッカース社で開発され、イギリス空軍で使用された爆撃機である。ハンドレページ ヴィクター、アブロ バルカンと共に3Vボマーと呼ばれた。3Vの中で最初の1955年に就役し、スエズ動乱にも参加している。イギリス初の核爆弾投下実験や水爆実験にも使用されたが、機体構造上に問題が発覚したため1965年に全機退役した。

2012年11月7日水曜日

フェアリー ソードフィッシュ(イギリス海・空軍複葉雷撃機)

情報元:Wikipedia(フェアリー ソードフィッシュ)

フェアリー ソードフィッシュ(Fairey Swordfish)とは、イギリスの航空機メーカーであるフェアリー社が開発し、イギリス海軍航空隊によって使用された三座複葉の雷撃機である。基本性能こそ低かったものの、汎用性や操作性に優れ複葉機時代の最後を飾った非全金属製軍用機の傑作。ソードフィッシュの意味は、魚類のメカジキ。

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2012年11月5日月曜日

九九式双発軽爆撃機(大日本帝国陸軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(九九式双発軽爆撃機)

九九式双発軽爆撃機(きゅうきゅうしきそうはつけいばくげきき)は、大日本帝国陸軍の爆撃機。試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ48。略称・呼称は九九式双発軽爆、九九双軽、双軽など。連合軍のコードネームはLily(リリー)。開発・製造は川崎航空機。

帝国陸軍が当時仮想敵国としていたソビエト労農赤軍との戦闘を意識して、赤軍や中華民国空軍のSB軽爆を元に開発した機体である。
爆弾搭載量や航続距離よりも、戦闘機並みの速度と運動性能が重視され、主として敵飛行場において在地敵機を撃滅することを目的とし、敵地上部隊に対しては反復攻撃でこれを撃破するという、重爆撃機(九七式重爆撃機)と同じく陸軍独自の戦術思想の元に設計された。
日中戦争(支那事変)、太平洋戦争(大東亜戦争)全期間を通して主力軽爆撃機として使用された。

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2012年11月2日金曜日

Su-33(ロシア海軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(Su-33)

Su-33(スホーイ33、スホイ33;ロシア語:Су-33スー・トリーッツァチ・トリー)とは、ロシアのスホーイの製造する戦闘機で、Su-27の艦上戦闘機版である。非公式な愛称として「シーフランカー」がある。NATOコードネームはフランカーD (Flanker-D)

Su-33の開発は、1970年代に旧ソビエト連邦が考案していた「新型AWACS計画」によって開始された。当初ソ連はスホーイ、MiG、ヤコブレフに研究を指示した。このうちミコヤンはMiG-27にアレスティング・フックを取り付けて地上試験を行ったが、機体の旧式化により技術的な問題がある、という結果がでている。スホーイはT-10(Su-27の原型機)にカナードや着艦フックなどを取り付けテストを行い、1982年に8月28日に模型航空母艦からの発艦に成功している。
Su-27を空母での運用可能な海軍仕様にした試験機は1984年に初飛行した。この試験機は、Su-27に着艦フックを取り付けるなど、ごく一部の改造を行ったのみであった。本格的な艦載機仕様の試作機はその後制作され、Su-27Kの名称で1987年8月17日に初飛行した。
Su-27Kの量産型は1990年初飛行し、1991年にロシア海軍への引き渡しを開始している。1992年には実戦可能な状態で配備されている。
NATOコードネームの"フランカーD"はアメリカやイギリス連邦諸国などの国防省によって行われる航空機標準化調整委員会 (ASCC)によって決定した。
また、並列複座練習型としてSu-27KUB(後にSu-33UBに改名)が制作され、1999年4月29日に初飛行している。推力偏向装置付きエンジンを装備している事が後に発覚した。現在のところSu-33の後継機候補としてロシア海軍により試験運用されている。1999年以降数回にわたり同国空母「アドミラル・クズネツォフ」甲板上から発艦しているのが確認された。

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2012年11月1日木曜日

FR ファイアボール(アメリカ海軍艦上戦闘機)

情報元:Wikipedia(FR ファイアボール)

FRはアメリカ合衆国のライアン社がアメリカ海軍向けに開発した艦上戦闘機。愛称はファイアボール
(Fireball)。初飛行は1944年。ジェットエンジンとレシプロエンジンの複合動力機であった。第二次世界大戦の終結を受けて少数しか生産されなかった。

1940年代に入り、ジェットエンジンの実用化が開始されたが、初期のジェットエンジンは燃費が悪いという欠点があった。そのため、出力の高いジェットエンジンと燃費のよいレシプロエンジンと組み合わせた複合動力機が考案された。本機もその一つである。
機体外形は、一般的なレシプロ戦闘機と同等であり、葉巻状の胴体に直線翼・低翼配置の主翼がつけられている。コックピットは涙滴型であった。機首にプロペラがあり、機体末端にジェットエンジンの排気口がある。そのため、着陸脚の配置は前輪式となっている。なお、インテイクは主翼付け根にあった。艦載機であり主翼は折りたたみできる。
本機の開発は1943年2月より開始された。試作機XFR-1の初飛行は1944年6月25日のことであるが、この時はレシプロエンジンでの飛行であった。1944年12月2日FR-1として100機が、1945年1月に改良型FR-2が600機が発注されたものの、戦争終結により11月までに66機が生産されたに過ぎず、残りはキャンセルとなった。1945年5月に本機によって一個飛行隊(第66戦闘飛行隊 VF-66)が編成されたものの、実戦には投入されていない。
FRはアメリカ海軍初のジェットエンジン搭載機であり、1945年11月6日には護衛空母ウェーク・アイランド(CVE-65)にジェットエンジン搭載機として、初の着艦を行っている。
戦争の終結とジェットエンジンの急速な進歩により、本機は短期間で退役することとなり、1947年には引退した。なお、レシプロエンジンをターボプロップエンジンに変更したXF2Rも開発されたが量産には至らなかった。
現在では、1機がカルフォルニア州の博物館に展示されている。

2012年10月31日水曜日

XB-51(アメリカ陸軍航空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(XB-51)

XB-51は、アメリカのマーチン社が試作したジェット爆撃機。初飛行は1949年。試作のみで、制式採用はされなかった。

1945年にアメリカ陸軍航空軍向けの機体・XA-45として開発が開始された。1946年に名称変更によりXB-51となる。機体の主任務は、低空爆撃と近接航空支援である。完成した試作機は、1949年10月28日に初飛行した。
機体は、軍用機としては珍しい三発機である。二発がコックピット下の機体・顎の部分にそれぞれ取り付けられ、三発目は尾部に取り付けられ、そのインテイクは垂直尾翼前方にある。主翼は後退角35度で下半角が6度ついている。主脚は胴体に二重車輪でタンデムについており、補助脚が主翼端に装備されている。乗員は2名であり、後席手が航法などを行う。
1950年にアメリカ空軍はA-26攻撃機を更新するために、カナダのCF-100やイギリスのキャンベラと比較した。結果、XB-51は低空飛行性能などに高い評価を受けたものの、その降着装置が未整備飛行場における運用に適しておらず、機体強度も低いと判断され、採用されなかった。
XB-51は試作機2機が製造されたのみであり、マーチン社は空軍に採用されたキャンベラ爆撃機の製造を行うこととなった。

2012年10月29日月曜日

F-111 アードバーク(アメリカ空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(F-111 アードバーク)

F-111はジェネラル・ダイナミクス社が開発した軍用機。センチュリーシリーズに数えられることがある。

初飛行は1964年で、世界初の実用可変翼機として知られる。公式な愛称を有さなかったものの、「アードバーク(Aardvark ツチブタの意)」などの複数の愛称で呼ばれる場合もある。(アメリカ空軍は退役当日にアードバークを公式採用することを発表した) 開発はロバート・マクナマラ国防長官の開発費、及び維持費の削減という狙いを強く反映し、アメリカ空軍とアメリカ海軍で共通の機体を使用させる事から空軍型のA型と艦上戦闘機型のB型の2機種の開発を目指した。しかし、B型は艦隊防空戦闘機としての重量軽減などを実現できず、最終的にはF-111Aのみの採用となった。マクナマラがフォード社の出身であることから、自動車のバッジエンジニアリングを軍用機に導入したと揶揄された。 ベトナム戦争や湾岸戦争等に投入され、主に対地攻撃任務に用いられた。
アメリカ空軍では1998年、オーストラリアでは2010年12月に退役した。

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2012年10月26日金曜日

サーブ 39 グリペン(スウェーデン空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(@@)

サーブ 39(JAS39 JASは「ヤース」と発音)はスウェーデンのサーブ社を中心として開発された戦闘機。愛称はグリペン (スウェーデン語: Gripen (有翼獅子))。

JAS39のJASはスウェーデン語のJakt(戦闘)、Attack(攻撃)、Spaning(偵察)の略で、文字通り戦闘・攻撃・偵察をすべてこなすマルチロール機(多目的戦闘機)である。機体のサイズで分類すれば軽戦闘機となり、航続距離などで妥協する代わりに運用の容易性と高いコストパフォーマンスを実現している。
グリペンはカナード(先尾翼)とデルタ翼の組み合わせであるクロースカップルドデルタという、サーブ 37 ビゲンを踏襲した形状となっている。ただしビゲンのカナードが揚力カナードであるのに対し、それ以降のクロースカップルドデルタ形式は、揚力を発生しない制御カナードを用いる例が多い。グリペンも同様であり、カナード全体が昇降舵のように可動するオールフライング方式を採用している。さらに着陸時には前に最大まで傾き、エアブレーキの役目を果たす。
武装は機銃1門のほか、機体下面に対空・対地・対艦兵装を搭載する。

サーブ39 プラモデル・模型等
イタレリ 2638 1/48 サーブ JAS39A グリペン (タミヤ・イタレリシリーズ:38638)(アマゾン)

2012年10月25日木曜日

Yak-3(ソビエト連邦空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(Yak-3)

Yak-3(Jak-3;ヤク3;ロシア語:Як-3ヤーク・トリー)は、Yak-9の主翼を小型化したソ連の低高度用戦闘機。A・S・ヤコヴレフ記念試作設計局で開発された。

当初は1941年頃より小型の主翼を装備する低・中高度用の格闘戦闘機として開発されていたが一旦中止、1943年からオレーク・コンスターンチノヴィチ・アントーノフ(アントーノフ設計局の創始者)により計画が復活された。新しい機体は当初の機体と異なる水滴型風防装備のYak-1Mを基礎として開発された。主翼はYak-9のものが使用された開発機もあったが、最終的には当初の機体のような小型のものが採用された。エンジンは新型のクリーモフ製VK-107が装備されるはずであったが結局間に合わず、VK-105PF2が搭載された。実戦においては最も優れたソ連戦闘機とも言われたほどの働きを残した。武装は12.7 mm UBS機銃1~2挺と20mm ShVAK機関砲1門であった。生産は、ロシアとウクライナで行われた。

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2012年10月24日水曜日

LeO 451(フランス軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(@@)

LeO 451は、フランスのリオレ・エ・オリビエ社(Lioré et Olivier)によって第二次世界大戦直前に開発された爆撃機である。1937年1月16日に原型のLeO 45-01が初飛行したが、この機体をより強力なノーム・ローンエンジンに換装したのがLeO 451で、1号機は1938年10月21日に進空した。全金属製の機体で、胴体を曲線でまとめた双尾翼式。1939年9月から量産開始したが生産が遅れ、ドイツ軍侵攻時にはわずか100機程が使用可能状態だったに過ぎなかった。このため、優れた爆撃機でありながら、実際の戦闘において貢献することはほとんど無いまま終わった。
停戦後も生産は続けられ、様々なバリエーションが作られた。最後の機体が退役したのは1957年であった。

2012年10月23日火曜日

P-47 サンダーボルト(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-47 サンダーボルト)

P-47はアメリカのリパブリックにより製造されたレシプロ単発戦闘機である。愛称はサンダーボルト (Thunderbolt) 。 第二次世界大戦当時、P-51と並びアメリカ陸軍航空軍 (USAAF) の主力戦闘機として活躍した。Jug(ジャグ)の愛称でも知られる。空中戦にも強かったが、特に戦闘爆撃機(ヤーボ)として大いに活躍した。アメリカ以外の連合国の空軍でも使用された。

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2012年10月22日月曜日

デ・ハビランド(DH.110) シービクセン

情報元:Wikipedia(デ・ハビランド(DH.110) シービクセン)

デ・ハビランド シービクセン (de Havilland Sea Vixen) とはイギリスの航空機メーカー、デ・ハビランド社が開発したイギリス海軍の全天候艦上戦闘機である。

元々、デ・ハビランドが第二次世界大戦終了直後に開発された戦闘機バンパイアの発展型であるベノムの主翼形状を直線翼から後退翼に変更し、全天候能力を付与した機体として空軍の発注で開発が開始された。
機体の特徴として、胴体が二分されている双胴型であり、操縦席は機体の中心軸から、ややずれた位置に据えられていた。これは、全天候能力の要であるレーダーを操作するレーダー手の座席空間を確保するための配置であった。
この機体は「雌狐」を意味するビクセンと命名され1951年に初飛行し、空軍が配備することを決定した。ところが翌年、ファーンボロー航空ショーでデモ飛行中のビクセンが空中分解を起こし、墜落。観覧していた民間人を含む29人の犠牲者を出す大惨事を引き起こし、空軍は契約をキャンセル、ビクセンの不採用を決定し、代わりにグロスター社が開発したジャベリンを採用した。
しかし、海軍がビクセンに興味を示し、航空母艦で使用する艦上戦闘機として導入することに決めた。シービクセンと命名され、艦上で運用するための改良を加えられた。シービクセンは1959年に部隊配備が開始され、主に艦隊が進出した中東やアフリカで警戒任務に従事し、1972年まで使用された。

2012年10月20日土曜日

フィアット G.91(イタリア空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(フィアット G.91)

フィアットG.91はイタリアのフィアット社(後に航空部門を切り離しアエリタリア社になった)がNATO向けに1960年代に開発した戦闘爆撃機である。バリエーションとしては、複座練習機型のG.91T、偵察機型のG.91R、拡大改良型といえるG.91Y(後述)がある。 1956年8月に初飛行し良好な性能を示したが、NATO加盟国のそれぞれの思惑もあって本機を採用したのはイタリア空軍、旧西ドイツ空軍、ポルトガル空軍の3カ国に止まった(このほかに、G.91Rの少数機がポルトガルの植民地であったアンゴラ空軍に引き渡されたとする資料もあるが未詳)。実戦経験としては、ポルトガルの植民地戦争において、ポルトガル空軍がアンゴラ、モザンビーク等での独立解放を目指すゲリラへの対地攻撃や偵察に、本機を投入した。 また、1960年代に米陸軍において近接航空支援・軽攻撃任務用の戦闘攻撃機装備計画が立案され、A-4、N-156F(のちのF-5)等と共に本機がその候補として浮上したものの、計画そのものが白紙化となり米陸軍に装備される事は無かった。このほかに、米空軍、ギリシャ空軍でも採用候補となり、数機が試験採用されたが本採用とならなかった。 後にエンジンをゼネラル・エレクトリック J85の2基に換装し、機体を拡張するなど大幅に改良したG.91Yが登場したが、採用国はイタリアのみに留まった。 採用された国では長期間運用され、最後の機体が退役したのは1995年であった。

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2012年10月19日金曜日

イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ(イギリス空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ)

イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ (English Electric Canberra) とはイギリスのイングリッシュ・エレクトリック社が開発し、イギリス空軍に採用されたジェット爆撃機である。初飛行1949年で、2006年にイギリス空軍では退役した。
速度性能や高高度性能、低空での操作性を評価され、イングリッシュ・エレクトリック社は爆撃機を土台に偵察機や練習機も開発した。また、アメリカ合衆国やオーストラリア空軍にも採用され、各国でライセンス生産された。

イギリス空軍は第二次世界大戦中の1943年からデ・ハビランド モスキートのようなジェット高速爆撃機を求めていた。キャンベラの開発は1945年にイギリス航空省から出された要求仕様B.3/45に始まる。要求内容はアブロ ランカスターの航続力とデハビランド モスキートの爆弾搭載量及び軽快性を兼ね備え、ジェット戦闘機と同等かそれ以上の速度と高高度性能を求めた厳しいものであった。
イングリッシュ・エレクトリック社は第二次世界大戦でハンドレページ ハンプデンやハンドレページ ハリファックスの製造を行っていた。戦後もデハビランド ヴァンパイアを製造して技術を高めてきていた。1944年にはウェストランド・エアクラフトのウィリアム・テディ・ペッターを社に招き、イングリッシュ・エレクトリック社で仕様B.3/45の開発に向けて動き出した。そして、1945年9月に航空省に計画を提出し、翌年1月には航空省から試作機製造の契約を結ぶところまでこぎ着けた。
高高度性能を満たすためにエンジンは、ロールス・ロイスで開発中のロールス・ロイス エイヴォンを選定した。簡素で当時としては一般的な設計は、グロスター ミーティアに似ていたが、ミーティアの拡大版というわけではなかった。試作機のA.1は、1949年4月29日に完成した。構想段階では後退翼の採用も検討されたが、角ばった楕円翼のような低アスペクト比直線翼が選ばれた。両翼それぞれの中央に埋め込む形でエンジン・ナセルを配し、エンジンはエイヴォン RA.2を搭載した。同年5月13日に初飛行し、軽快な運動性と優れた性能を示した。エイヴォンの製造中止を警戒してロールス・ロイス ニーンを搭載した試作機も製造された。
1949年9月にファーンボロー国際航空ショーでお披露目され、名称は最初の海外顧客で、イギリス連邦の構成国、オーストラリアの首都キャンベラにちなんだ。キャンベラがイギリス空軍に引き渡される以前からアメリカとオーストラリアが興味を示していた

2012年10月18日木曜日

三菱 F-2(自衛隊戦闘機)

情報元:Wikipedia(三菱 F-2)

F-2(エフに、エフツー)は、F-1の後継として開発された日本・航空自衛隊の戦闘機である。1995年(平成7年)に初飛行を行い、2000年(平成12年)から部隊配備を開始した。

第4.5世代ジェット戦闘機に分類される航空自衛隊の戦闘機である。F-16を大型化した機体に空対艦ミサイルを最大4発搭載という、戦闘機としては世界最高レベルの対艦攻撃能力と対空能力を兼備しており、「バイパーゼロ」という非公式の愛称を持つ。F-1と同じく支援戦闘機に分類されていたが、現在は「要撃」「支援」の区分が廃止されたため、F-2戦闘機と表記される。その性能や用途から、戦闘爆撃(攻撃)機やマルチロール機に分類される場合もある。
本機の本開発が始まる以前の「FS-X(次期支援戦闘機)」の段階では国産機開発として計画されていたが、技術的・政治的問題によりアメリカとの共同開発となった。これによりロッキード・マーティン社のF-16多用途戦闘機をベースとし、三菱重工業を主契約企業、ロッキード・マーティンなどを協力企業として開発されることになった。
本機は大型化に伴う重量増軽減の為に、炭素繊維強化複合材による一体構造の主翼を世界で初めて採用している。また、量産戦闘機として世界初となるアクティブフェーズドアレイレーダーを搭載し、CCV研究機T-2CCVにより蓄積された国産技術によるデジタル式フライ・バイ・ワイヤ(FBW)を飛行制御に用いる。
94機調達し、一機当たりの調達価格は約119億円と言われている。支援戦闘飛行隊の存在する三沢基地の第3航空団や築城基地の第8航空団を主に、松島基地の第4航空団など教育関係の部隊へも配備され、支援戦闘任務だけでなく要撃任務にも従事している。

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2012年10月17日水曜日

He 219(ドイツ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(He 219)

He219は第二次世界大戦中期に登場したハインケル社製のドイツの夜間戦闘機である。愛称は「ウーフー」(ワシミミズク)。

第二次世界大戦下、英空軍によるドイツ本土への夜間爆撃が本格化するなかで、ドイツ空軍が爆撃機を改造した応急的な夜間戦闘機しか保持していない事を憂慮したヨーゼフ・カムフーバー (Josef Kammhuber))大佐は、ハインケル社にP.1055、P.1056という開発を停止していた機種を再設計するように要請した。結果、誕生したのが双発の本機である。原型一号He219V1は1942年に初飛行を行い、最大時速615km/hを記録している。これは今までのJu 88等を転用していた夜間戦闘機の中で、最も高速であった。翌年の三月にレヒリンの空軍実験センターで行われた模擬空戦でも、Ju88RやDo217Nに圧勝、航空省から300機の量産受注を獲得する。

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2012年10月16日火曜日

F-89 スコーピオン(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-89 スコーピオン)

9はノースロップがアメリカ空軍向けに開発した戦闘機。愛称はスコーピオン(Scorpion)。全天候戦闘機・要撃機として運用された。初飛行は1948年8月16日。

P-61の後継のジェット夜間戦闘機として、1945年12月より開発が開始され、1950年から実戦配備が行われた。機体はレーダー手を乗せるためにタンデム複座となっており、機首にレーダーを搭載している。エンジンは胴体下部に並列に装備しており、ノズルは胴体後部、主翼直後にある。尾翼は細いテールの先に設置されており、主翼は中翼配置の直線翼である。主翼端には増槽を装備できるが、後期型では増槽と武器庫が兼用となった大型ポッドとなった。この大型の増槽のおかげで航続距離は長く、広大な北極海をパトロールする必要があるアラスカの部隊において好評であった。そのため超音速戦闘機が実用化・配備されていき、同時期の単座亜音速全天候戦闘機であるF-86D/Lが退役する一方で、本機は非常に長く使われ、最後の空軍州兵の機体が退役したのは1968年である(航空自衛隊において「アメリカ空軍で余剰になった旧式機」として供与されたF-86Dが退役するのと、同年である)。

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2012年10月15日月曜日

B-26 マローダー(アメリカ陸・海軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(B-26 マローダー)

B-26は、アメリカ陸軍航空隊向けにマーチン社が開発し、第二次世界大戦中に配備された爆撃機である。アメリカ軍における公式ニックネームはマローダー(Marauder=略奪)。
同時期に開発されたB-25より高性能だったが、操縦の難しさから初期型では事故が多発し、乗員には「キラー・プレーン(殺人機)」「ウィドー・メーカー(未亡人製造機)」と呼ばれて嫌われた。その結果、B-25に比べて生産数や使用国の数で大きく差がつく結果となった。

1939年1月にアメリカ陸軍航空隊から出された新型高性能爆撃機の仕様に対して、マーチン社が計画・開発したのがB-26である。計画書では特に速度性能を重視して、当時の爆撃機に比べて円形断面で紡錘型の胴体を持ち翼面荷重の高い高翼機となっていた。
これが陸軍当局の要望と一致したため、本機は試作機無しにいきなり1,100機の大量発注を受けることとなった。1940年11月に量産第1号機が初飛行した。この機体は、最高速度508km/hという高速を出した。しかし、新型機に対する訓練期間が必要だったため、実際に戦場に登場したのは、第二次世界大戦中の1942年に入ってからとなった。

B-26は高速で、重武装かつ防御力の優れた爆撃機だったが、高速力を目指したために翼面荷重が高くなり、操縦はかなり難しく、また着陸速度は200km/hを超えるなど危険な航空機であった。このため離着陸時や低速飛行時の事故が続発し、最初の生産型であるB-26Aは一時生産中止になった。その後改良を加えた型であるB-26Bが開発され生産が再開された。この型は武装と装甲も強化されており、B-26各型の内で最も多く生産された。 この後も、主翼面積を増大させたり迎角を増加させたりするなどした改良型が作られ、主にヨーロッパ戦線で使用された。ヨーロッパ戦線では高い生還率を誇ったものの、同時期に運用されたB-25と比べると運用し辛かったため、必ずしも現場での評判は高くなかった。
また一部の型は魚雷を胴体下に装備する事もでき、対艦攻撃機として対日戦のミッドウェー海戦やニューギニア方面等で用いられたが、投入機数が少なかったこともあり大きな戦果をあげることはできなかった。第二次世界大戦終結後も暫く運用されたが、1948年には全機退役している。
第二次世界大戦中には、連合国のイギリス軍や自由フランス軍に対してもレンドリース機として相当数が供与された。なお、1961年に発生したピッグス湾事件で亡命キューバ人部隊に供与され、実戦使用されたのは本機ではなく、1948年の機種区分変更以前はA-26インベーダーと呼ばれていたダグラス社製の航空機である。

陸軍だけでなく海軍でも本機を訓練支援機や写真偵察機として使用した。アメリカ海軍では本機をJMの呼称で、乗員訓練、標的曳航等を行う汎用機として採用した。1943年から1944年にかけて、合計225機が引き渡された。これらは、B26Cをベースにして不要な武装を撤去し標的曳航装置を備えた、射撃訓練/標的曳航機であった。
この中の数機は、航空カメラを装備し写真偵察機として使用された。これとは別に、1945年に陸軍からTB-26G(B-26Gの練習機型)を47機譲渡され、訓練と標的曳航に使われた。これらの機体は太平洋戦争の終結とともに退役し、その後はミサイル標的の曳航機として利用され生涯を終えた。

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2012年10月12日金曜日

IAR-81(ルーマニア空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(IAR-81)

IAR-81(ルーマニア語:IAR-81イー・アー・レー・オプゼチ・シ・ウヌ)は、ルーマニアの航空機メーカーであるIARブラショフ(IAR Braşov;Industria Aeronautică Română Braşov)によって開発された軽急降下爆撃機。後期の派生型は急降下爆撃用の装置を廃し、対爆撃機用迎撃戦闘機として設計された。ルーマニア航空隊のみで運用。ルーマニア初の低翼単葉戦闘機であるIAR-80の派生型である。
なお、実機垂直尾翼には「I.A.R.81」と書かれていることが多くこの表記が当時の正式のものと考えられるが、記述上では「IAR-81」または「IAR 81」と書かれることも多くまた近年のIAR製の航空機では「IAR」と表記されることとの整合性から、ここでは便宜的に「IAR-81」を採用することとする。

2012年10月11日木曜日

マッキMC.200サエッタ(イタリア空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(マッキMC.200サエッタ)

MC.200 は第二次世界大戦直前から第二次世界大戦中にかけてイタリアで生産された単座の戦闘機である。愛称は“サエッタ(Saetta=稲妻、矢の意)”

1936年のイタリア空軍増強計画(プログラムR)の仕様に基づいてマッキ社が開発した戦闘機が、MC.200である。 設計にはシュナイダー杯で他国の設計者と高速水上機の設計を競ったマリオ=カストルディ(Mario Castoldi)技師が当たった。このシュナイダー杯には、後にスピットファイアを設計するレジナルド=J=ミッチェルをはじめ、各国の精鋭技師達がその腕を競っていた。 この戦闘機の開発にあたって、まず840馬力のフィアットA74AC38空冷エンジンで500km/hを出さねばならなかったことが苦難の始まりであった。また、保守的なパイロット達は極端なまでの視界性能を要求した。これには、前面投影面積が増し、空力的にマイナスとなることは分かっていても、機体の背を猫背のように高くし、操縦席の視点を上げることで応えた。 1937年12月に初飛行し、フィアットG.50、CR.42等、他のプログラムR応募作品中、最優秀機と判定されたため、ただちに生産に入り、1939年、3個大隊(ストロモ)に配備された。 しかし、そのうちの1個大隊は、複葉戦闘機の方を好んだため、CR.42に改変させられてしまい、また他の大隊でも、原因不明の墜落事故が発生したため、一時、飛行停止の処置が取られた。後に事故の原因は、高G機動時の失速と判明し、対策として、主翼の改修が行われたが、これにより、同機の実戦参加は、第二次世界大戦開始から1年近くが経過した1940年9月まで遅れることとなった。 実戦投入後の評判は良好で、当初は単葉戦闘機を拒絶した保守的なパイロットにも受け入れられ、イタリア空軍の主力戦闘機の1つとして、北アフリカ、地中海、ロシア戦線などで活躍し、卓越した運動性能で、ホーカー ハリケーンMk.Iや、カーチスP-40トマホーク等と互角に渡り合った。ロシア戦線では、赤軍がI-16やI-153を使用しているうちは、圧倒的な優位に立って戦う事ができた。 生産当初は水滴型の密閉式風防を装備していたが、パイロットからの「良好な視界を得たい」、「風を感じないと速度の感覚が掴めない」とのさらなる要望に応える形で、後期型は開放式の風防と、イタリア機特有のくびれがついたファストバックという、時代に逆行するような操縦席に改められている。但し、当時はガラスの製造技術が未熟だった点もあり不純物や気泡が入ってしまう事があったこと、当時の計器は全面的に信用できる性能を持っていなかった為に操縦士が勘や経験に頼らざるを得ない面があった事も確かであり、一概に間違った改造とは言い切れない。 アフリカにスピットファイア等の新鋭機が配備されるようになると、性能的に対抗するのは難しくなった。そして、ドイツ製のダイムラーベンツDB601液冷エンジンを搭載した後継機のMC.202フォルゴーレが登場した1942年以降は、次第に対戦闘機の任務から外され、戦闘爆撃機として利用されることが多くなった。 MC.200は、列強各国の最新戦闘機に比べると、出現時点で既に見劣りしていたが、より高出力のエンジンと出会うことでMC.202フォルゴーレ、MC.205ベルトロと進化し、前者はイタリア軍主力戦闘機として、後者はイタリア軍最優秀戦闘機としてその名を知られることになった事を考えればカストルディ技師の基礎設計の優秀さがわかる。 1943年9月8日のイタリア降伏時には、残存機はほとんどなかった。23機がイタリア南部に飛び、連合国側のイタリア共同交戦空軍 (イタリア語版)でしばらく練習機として使用された。 総生産機数は、1,153機。

2012年10月10日水曜日

XF-88 ヴードゥー(アメリカ空軍戦闘機)(スライド)

情報元:Wikipedia(XF-88 ヴードゥー)

XF-88はアメリカ合衆国のマクドネル社がアメリカ空軍向けに開発していた戦闘機。愛称はヴードゥー (Voodoo)、試作機のみの製造で量産はされなかったが、F-101の原型となった。

1940年代後半に、アメリカ陸軍航空軍は爆撃機を護衛する長距離戦闘機の必要性を認識していた。戦闘機はジェット化の時代になりつつあったが、初期のジェット機は燃料消費率が高く、航続距離が短いという欠点を持っていた。まず、XP-81やXP-83が試作されたが、1944年から1945年にかけて初飛行した。しかし、それらは性能不十分のため、不採用となった。
1946年にアメリカ陸軍航空軍(1947年以降アメリカ空軍)は長距離戦闘機の試作をマクドネル社とロッキード社に依頼することとなった。これは、「侵攻戦闘機計画 (penetration fighter) 」と呼称され、1,500マイル(2,400km)の行動半径を持ち、限定的ながらも地上攻撃が可能で、15,000ポンド以下の重量の機体という要求であった。なお、行動半径の要求は後に900マイル(1,400km)に引き下げられた。競争試作として、マクドネル社はこれに対しXP-88を開発し、ロッキード社はXP-90を開発することとなった。
XP-88として1946年6月20日に試作機の発注が行われた。初飛行は1948年10月20日に行われている。なお、名称は1948年6月11日にXF-88に変更されている。胴体内にターボジェットエンジンを2基搭載しており、主翼付け根に空気取り入れ口を持つ。また、排気口を胴体後部に持つ。排気口よりも後にテイルが伸びており、尾翼もその先に付けられている。主翼は低翼配置で、35度の後退角を持っている。キャノピーは涙滴型となっており、武装は機首に20mm機関銃6門を計画していた。
長大な航続距離を求められたために、胴体を中心に燃料容量は2,273Lが確保されており、他に1,325Lの増槽2個を搭載できた。このため、最大航続距離は2,779kmとなっている。エンジンはウエスチングハウス社製J34-WE-13(推力:1,452kg)が用いられたが、これは推力不足であり、2号機がXF-88Aとして、1949年6月にアフターバーナー付のJ34-WE-22(推力:2,100kg)に換装された。XF-88は比較試験の結果、ロッキードXF-90よりも優秀と判定されたものの、1950年9月に空軍が侵攻戦闘機計画を中止したために2機の試作に終わり、制式採用はなされなかった。
試作1号機は、機首にアリソンXT-38-A-5ターボプロップエンジン(出力:2,500軸馬力)を搭載し、実験機XF-88Bとなっている。XF-88Bは4翅のプロペラを持っており、高速プロペラ実験機として1953年から1957年にかけて各種試験に用いられた。1956年には混合動力プロペラ機として音速を超えることに成功している。この機体は1958年にスクラップにされた。
XF-88のデザインはF-101戦闘機(1951年より開発開始)の基となり、大まかな機体デザインは同じとなっている。また、愛称のヴードゥーも受け継がれた。

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2012年10月9日火曜日

XF-88 ヴードゥー(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(XF-88 ヴードゥー)

XF-88はアメリカ合衆国のマクドネル社がアメリカ空軍向けに開発していた戦闘機。愛称はヴードゥー (Voodoo)、試作機のみの製造で量産はされなかったが、F-101の原型となった。

1940年代後半に、アメリカ陸軍航空軍は爆撃機を護衛する長距離戦闘機の必要性を認識していた。戦闘機はジェット化の時代になりつつあったが、初期のジェット機は燃料消費率が高く、航続距離が短いという欠点を持っていた。まず、XP-81やXP-83が試作されたが、1944年から1945年にかけて初飛行した。しかし、それらは性能不十分のため、不採用となった。
1946年にアメリカ陸軍航空軍(1947年以降アメリカ空軍)は長距離戦闘機の試作をマクドネル社とロッキード社に依頼することとなった。これは、「侵攻戦闘機計画 (penetration fighter) 」と呼称され、1,500マイル(2,400km)の行動半径を持ち、限定的ながらも地上攻撃が可能で、15,000ポンド以下の重量の機体という要求であった。なお、行動半径の要求は後に900マイル(1,400km)に引き下げられた。競争試作として、マクドネル社はこれに対しXP-88を開発し、ロッキード社はXP-90を開発することとなった。
XP-88として1946年6月20日に試作機の発注が行われた。初飛行は1948年10月20日に行われている。なお、名称は1948年6月11日にXF-88に変更されている。胴体内にターボジェットエンジンを2基搭載しており、主翼付け根に空気取り入れ口を持つ。また、排気口を胴体後部に持つ。排気口よりも後にテイルが伸びており、尾翼もその先に付けられている。主翼は低翼配置で、35度の後退角を持っている。キャノピーは涙滴型となっており、武装は機首に20mm機関銃6門を計画していた。
長大な航続距離を求められたために、胴体を中心に燃料容量は2,273Lが確保されており、他に1,325Lの増槽2個を搭載できた。このため、最大航続距離は2,779kmとなっている。エンジンはウエスチングハウス社製J34-WE-13(推力:1,452kg)が用いられたが、これは推力不足であり、2号機がXF-88Aとして、1949年6月にアフターバーナー付のJ34-WE-22(推力:2,100kg)に換装された。XF-88は比較試験の結果、ロッキードXF-90よりも優秀と判定されたものの、1950年9月に空軍が侵攻戦闘機計画を中止したために2機の試作に終わり、制式採用はなされなかった。
試作1号機は、機首にアリソンXT-38-A-5ターボプロップエンジン(出力:2,500軸馬力)を搭載し、実験機XF-88Bとなっている。XF-88Bは4翅のプロペラを持っており、高速プロペラ実験機として1953年から1957年にかけて各種試験に用いられた。1956年には混合動力プロペラ機として音速を超えることに成功している。この機体は1958年にスクラップにされた。
XF-88のデザインはF-101戦闘機(1951年より開発開始)の基となり、大まかな機体デザインは同じとなっている。また、愛称のヴードゥーも受け継がれた。

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2012年10月6日土曜日

Fw200 コンドル(ドイツ空軍哨戒爆撃機)(スライド動画)

情報元:Wikipedia(Fw200 コンドル)

Fw200 コンドル(Focke-Wulf 200 Condor)はドイツフォッケウルフ社で製造された4発エンジンの長距離輸送機(旅客機)である。第二次世界大戦の勃発により軍に徴用され、長距離哨戒爆撃機として船舶攻撃に活躍した。しかし、戦争の後期には主に輸送任務に回されるようになった。

Fw200 コンドル プラモデル・模型等(アマゾン)
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2012年10月5日金曜日

F/A-18E/F スーパーホーネット(アメリカ海軍戦闘攻撃機)

情報元:Wikipedia(F/A-18E/F スーパーホーネット)

F/A-18E/Fはマクドネル・ダグラス社が開発したF/A-18A-D ホーネットの発展型戦闘攻撃機である。F/A-18E/Fとは本シリーズの総称であり、その内容は単座型のF/A-18Eと複座型のF/A-18Fからなる。 愛称はホーネットを超越しているという意味を込めて「スーパーホーネット」(Super Hornet) に変更された。A型からD型までのレガシーホーネットと識別するために、「ライノ」(Rhino)という愛称を無線でコールする際に用いている。「レガシーホーネット」・「ライノ」ともに非公式な呼称である。

本機は第4.5世代ジェット戦闘機に分類される、戦闘攻撃機(マルチロール機)である。A-12の開発中止を受けて、既存のF/A-18(A型からD型)の基本設計から全面的に再設計することで開発された。航続距離や兵器搭載能力の向上を図り、機体の大型化やステルス性を考慮した設計変更が行われた。 2001年にF/A-18E/Fが初度作戦能力を獲得し、アメリカ海軍のF-14艦隊防空戦闘機(艦上戦闘機)を更新する形で配備が進められた。イラク戦争等の実戦に参加した。 アメリカ海軍の他にオーストラリア空軍でも採用されている。

F/A-18E/F スーパーホーネット(楽天)
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2012年10月4日木曜日

Su-34(ロシア空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(Su-34)

Su-34(スホーイ34、スホイ34;ロシア語:Су-34スー・トリーッツァチ・チトィーリェ)は、ロシア(旧ソ連)のスホーイ社によって開発された、Su-27の発展型の戦闘爆撃機である。 ロシアにおいては、Многофункциональные Самолеты(多機能航空機)、あるいは、Su-24と同様Фронтовые Бомбардировщики(前線爆撃機)と呼ばれている。NATOコードネームはフルバック(Fullback)である。

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1/72 ウォーバードコレクション WB-43 スホーイSU-34 (アマゾン)

2012年10月3日水曜日

La-9(ソビエト連邦戦闘機)

情報元:Wikipedia(La-9)

La-9(ロシア語:Ла-9ラー・ヂェーヴャチ)は、ソ連で開発された戦闘機である。1946年に初飛行した。

La-9は、ソ連においてLaGG-1以来ラーヴォチュキン設計局が開発を続けてきた一連の戦闘機の完成型といえる機体であった。そこでは、La-7まで金属・木材・布等の混合構造であった機体構造を全金属製にするなど、全面的な改設計を行われていた。また、操縦席もより視界の良い風防に変更されていた。戦力化は第二次世界大戦には間に合わなかったが、Yak-9Pとともに1940年代後半のソ連軍の主力戦闘機となった。しかしながら、1947年にはMiG-15が初飛行に成功するなどジェット化がすぐあとに控えていたため、La-9などのレシプロ戦闘機はそれらと比べればあまり多くは配備されなかった。 La-9の発展型としては、1947年に初飛行したLa-9V(Ла-9В、UTI La-9(УТИ Ла-9)とも呼ばれる)複座練習訓練戦闘機があり、また同年にはジェットエンジン2基を搭載するLa-9RD(Ла-9РД)も飛行した。La-11(Ла-11ラー・アヂーンナツァチ)はLa-9の長距離護衛戦闘機型で、翼端に燃料タンクを取り付けることも出来た。La-9とLa-11はともに朝鮮戦争へ投入され、Yak-9Pとともに中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国軍の航空戦力の主力を担った。また、La-9はルーマニアなどに、La-11はインドネシアなどにも輸出された。日本の近くでは、1950年代、択捉島にソ連軍のLa-11が配備されていた。

2012年10月2日火曜日

P-40 ウォーホーク(アメリカ陸軍戦闘機)スライド動画

情報元:Wikipedia(P-40 ウォーホーク)

カーチス P-40 (Curtiss P-40) は第二次世界大戦期のアメリカ陸軍の戦闘機である。愛称はウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指す言葉) 。 性能的には平凡な機体であったが、実用性が高く常に量産体制が整っていた事もあり、他の戦闘機の補完的存在として広く使われた。 アメリカ陸軍のみならず連合国各国にも多数が供与され、イギリス軍ではC型までをトマホーク (Tomahawk:インディアンの用いた斧)、D型からをキティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所) の名称で装備した。

1938年、P-36の改造型として空冷エンジンを液冷のアリソンエンジンに換装しXP-40として初飛行した。この機体は、最大速度で原型のP-36よりも70kmも速かったので、直ちに量産命令が出てフランスに援助機として振り向ける事となった。しかし1940年のフランス敗戦により、援英機として、トマホークの名でイギリスに供与された。
日中戦争で日本軍の攻勢に苦しんでいた中華民国の蒋介石の妻で、国民党航空委員会秘書長でもあった宋美齢のアメリカ軍への呼びかけにより、中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられたクレア・リー・シェンノートにより、アメリカの「義勇兵」パイロットで編成されたAVG(フライング・タイガース)はP-40を129機装備し、国民党軍を支援するため中国で活動した。
日本軍の九七式戦闘機や九七式重爆撃機、少数の隼(加藤隼戦闘隊)を相手に一撃離脱戦法で戦い、1941年12月20日~翌年6月12日の解散までに「フライング・タイガース」側の記録では撃墜・撃破171機(日本側記録89機)の戦果をあげ、自らは80機を失ったとされた(この「撃墜記録」は、報奨金獲得のために水増しされているとの意見もあり、実際に日本側の被撃墜記録との乖離が激しい)。
また、1941年12月の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時にアメリカの植民地のフィリピンに配備されていた同機は、零式艦上戦闘機や一式戦闘機「隼」をはじめとする日本機の邀撃に当たったが空戦性能に遅れをとり劣勢に立たされた。
連合軍は後に武装の貧弱さと高度性能の改善をはかり、マーリンエンジン搭載に改良したF型を投入し、これを「ウォーホーク」と称した。P-40Fは高々度において、はるかによい性能を発揮した。しかし、あまり多数のマーリンエンジンは入手できなかった。というのは、よりすぐれたノースアメリカン P-51 マスタング にそのエンジンの優先権が与えられていたからである。
エンジンと武装の改良を繰り返し最終のQ型まで総数13,738機生産された。地味ではあるが大戦の前期に連合国各国へ供与された機体は、日本軍やドイツ軍に対して劣勢な中で重要な使命を担った。 なお、大日本帝国陸軍は完全な状態のP-40を数機鹵獲し、内地に送りテスト飛行や研究用に使用したほか、1943年に羽田空港で開催された鹵獲機展示会で一般向けに公開されている。なおビルマ戦線のラングーンでは、少数の鹵獲P-40による臨時の防空隊が飛行第五十戦隊の高野明中尉(陸士53期)以下4名の操縦者と整備隊で結成された。しかし初陣の夜間迎撃では飛行第十二戦隊所属の九七式重爆を誤って不時着大破させるなど、活躍することなく、3ヶ月後の5月26日に解散している。
1943年11月当時大学生だった佐々木陸軍少尉は、陸軍航空技術研究所で鹵獲展示されたP-40に搭乗。防弾装備と、小便を機外に排出するため操縦席に備え付けられた蛇腹状の管を見て、人間工学を配慮した設計に感銘を受けている。
現在、約70機のP-40がアメリカを中心に現存しており、内約30機は飛行可能な保存状態にある。2012年3月には、1942年にエジプトのサハラ砂漠で墜落した英軍のP-40「キティホーク」の残骸が大変良好な状態で発見された。

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2012年10月1日月曜日

P-40 ウォーホーク(アメリカ陸軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(P-40 ウォーホーク)

カーチス P-40 (Curtiss P-40) は第二次世界大戦期のアメリカ陸軍の戦闘機である。愛称はウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指す言葉) 。 性能的には平凡な機体であったが、実用性が高く常に量産体制が整っていた事もあり、他の戦闘機の補完的存在として広く使われた。 アメリカ陸軍のみならず連合国各国にも多数が供与され、イギリス軍ではC型までをトマホーク (Tomahawk:インディアンの用いた斧)、D型からをキティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所) の名称で装備した。

1938年、P-36の改造型として空冷エンジンを液冷のアリソンエンジンに換装しXP-40として初飛行した。この機体は、最大速度で原型のP-36よりも70kmも速かったので、直ちに量産命令が出てフランスに援助機として振り向ける事となった。しかし1940年のフランス敗戦により、援英機として、トマホークの名でイギリスに供与された。
日中戦争で日本軍の攻勢に苦しんでいた中華民国の蒋介石の妻で、国民党航空委員会秘書長でもあった宋美齢のアメリカ軍への呼びかけにより、中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられたクレア・リー・シェンノートにより、アメリカの「義勇兵」パイロットで編成されたAVG(フライング・タイガース)はP-40を129機装備し、国民党軍を支援するため中国で活動した。
日本軍の九七式戦闘機や九七式重爆撃機、少数の隼(加藤隼戦闘隊)を相手に一撃離脱戦法で戦い、1941年12月20日~翌年6月12日の解散までに「フライング・タイガース」側の記録では撃墜・撃破171機(日本側記録89機)の戦果をあげ、自らは80機を失ったとされた(この「撃墜記録」は、報奨金獲得のために水増しされているとの意見もあり、実際に日本側の被撃墜記録との乖離が激しい)。
また、1941年12月の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時にアメリカの植民地のフィリピンに配備されていた同機は、零式艦上戦闘機や一式戦闘機「隼」をはじめとする日本機の邀撃に当たったが空戦性能に遅れをとり劣勢に立たされた。
連合軍は後に武装の貧弱さと高度性能の改善をはかり、マーリンエンジン搭載に改良したF型を投入し、これを「ウォーホーク」と称した。P-40Fは高々度において、はるかによい性能を発揮した。しかし、あまり多数のマーリンエンジンは入手できなかった。というのは、よりすぐれたノースアメリカン P-51 マスタング にそのエンジンの優先権が与えられていたからである。
エンジンと武装の改良を繰り返し最終のQ型まで総数13,738機生産された。地味ではあるが大戦の前期に連合国各国へ供与された機体は、日本軍やドイツ軍に対して劣勢な中で重要な使命を担った。 なお、大日本帝国陸軍は完全な状態のP-40を数機鹵獲し、内地に送りテスト飛行や研究用に使用したほか、1943年に羽田空港で開催された鹵獲機展示会で一般向けに公開されている。なおビルマ戦線のラングーンでは、少数の鹵獲P-40による臨時の防空隊が飛行第五十戦隊の高野明中尉(陸士53期)以下4名の操縦者と整備隊で結成された。しかし初陣の夜間迎撃では飛行第十二戦隊所属の九七式重爆を誤って不時着大破させるなど、活躍することなく、3ヶ月後の5月26日に解散している。
1943年11月当時大学生だった佐々木陸軍少尉は、陸軍航空技術研究所で鹵獲展示されたP-40に搭乗。防弾装備と、小便を機外に排出するため操縦席に備え付けられた蛇腹状の管を見て、人間工学を配慮した設計に感銘を受けている。
現在、約70機のP-40がアメリカを中心に現存しており、内約30機は飛行可能な保存状態にある。2012年3月には、1942年にエジプトのサハラ砂漠で墜落した英軍のP-40「キティホーク」の残骸が大変良好な状態で発見された。

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2012年9月29日土曜日

ダッソー ラファール(フランス海・空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(ダッソー ラファール)

ラファール(フランス語: Rafale)は、フランスのダッソー社が開発した戦闘機。フランス空軍・海軍でマルチロール機として運用されている。当初、フランスはイギリス、ドイツとの共同開発で欧州戦闘機開発を行っていたが、政治的理由(後述)で脱退。その後、単独で開発に着手し、完成させたのが同機である。 クロースカップルドデルタ (close coupled canard/delta) と呼ばれる無尾翼デルタ式にカナード翼を組み合わせた翼を持つ。機体名称は、フランス語で「疾風、突風」の意味。

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2012年9月28日金曜日

FFVS J22(スウェーデン戦闘機)

情報元:Wikipedia(FFVS J22)

FFVS J 22は第二次世界大戦中に造られたスウェーデンの戦闘機である。1942年9月21日に初飛行した。 第二次世界大戦に際してスウェーデンは中立を保ったが、隣国のフィンランド、ノルウェーが戦争に巻き込まれるのを見て、空軍力の整備に努力しなければならなかった。アメリカやイタリアからの戦闘機の輸入も必ずしも順調に行えなかったため、自国での軍用機開発がこころみられた。一つはFFVS (Flygförvaltningens Flygverkstad i Stockholm) 航空庁国立工場)のJ 22であり、もう一つがSAAB社のJ 21である。 FFVS J 22は鋼管骨組みに合板張りの片持ち低翼単葉の機体にプラット&ホイットニー ツイン・ワスプを無断でコピーしたエンジンを搭載した。(戦後ライセンス料を支払ったという。)バルティ社に技術習得にいっていた技術者ルンドベリが設計をおこなった。1000馬力級のエンジンで575km/hの最高速度というかなりの高性能機で、報道では「エンジン馬力に比率して世界最高速の航空機」と呼ばれた。戦後のスウェーデンの航空産業の発展の元になった機体である

2012年9月27日木曜日

ブリストル ボーファイター(イギリス空軍重戦闘機)

情報元:Wikipedia(ブリストル ボーファイター)

ブリストル ボーファイター (Bristol Beaufighter) は、第二次世界大戦でイギリス空軍が使用した双発の重戦闘機 (Heavy fighter)。開発はブリストル・エアロプレーン社。イギリス空軍の他、アメリカ陸軍、オーストラリア空軍でも使用されている。
本来は、長距離を飛行できる昼間戦闘機として開発されたが性能不足であったため、夜間戦闘機、戦闘雷撃機に転用され、終戦まで活躍した。

ボーファイターの起源は、同じブリストル社が開発した双発雷撃機ブリストル ボーフォートと全く別の試作戦闘機、ブリストル タイプ 151にまで遡る。
ボーフォートを元にした計画はトーラスエンジンと20 mm機関砲を装備した重武装の昼間爆撃機を目指したものであったが、関係者が死去したことにより計画は中断されてしまった。
タイプ151の計画は、当初、ハーキュリーズエンジン装備の単発戦闘機であったが、後に空軍の仕様書F37/35に沿った、アクイラエンジン装備の双発戦闘機に改められ、タイプ153、およびタイプ153Aと呼ばれた。しかし、この計画はウェストランド ホワールウィンドに敗れ、不採用となった。
その1年後、ブリストル社からの提案という形で、新たな双発戦闘機の仕様書が空軍に提出されるが、空軍の要求と合わなかったため、いくつかの仕様が検討され、結局、ボーフォートの機体を流用した、タイプ156が選択された。
この仕様は、ハーキュリースエンジンを2基、機首下にイスパノ Mk.II 20mm機関砲4門を装備しており、尾翼、外翼、降着装置をボーフォートと共通しているため、設計期間が短くて済み、生産転換も容易である点が特に評価された。
試作1号機は1939年7月に行われたが、性能は思わしくなく、各種改修を行っても最大速度は期待された539 km/hを下回る497 km/hしか出なかったが、機動性は概ね満足の行くものに仕上がっており、1940年7月、制式採用され、ごく少数機が、バトル・オブ・ブリテンの昼間迎撃にも参加している。
夜間戦闘機としての運用もほぼ同時に始まり、レーダーを搭載したタイプが、1941年ごろから、夜間戦闘機の主力として大きな戦果をあげている。
対艦攻撃機としてのボーファイターは、1942年11月に最初の部隊が編成されている。索敵、機銃掃射、爆撃、雷撃等、艦船攻撃用の複数の任務を1機種でまかなえる雷撃型ボーファイターの登場は、混成対艦攻撃の嚆矢となった。

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2012年9月26日水曜日

Z.1007(イタリア空軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(Z.1007)

Z.1007はカント社(カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)が開発した3基のエンジンを搭載したイタリア空軍の爆撃機。愛称はカワセミを意味するアルシオーネ (Alcione)。 試作機が1937年3月に初飛行し、1938年から生産が始まった。その年の10月にイタリア軍によるギリシャ侵攻(バルカン半島の戦い)で初投入され、1940年9月のバトル・オブ・ブリテンでも使用された。

カントZ.1007は、1935年から開発が開始された中型の陸上爆撃機である。設計主務者はフィリッポ・ザパタ(Filippo Zappata)技師。原型機は1937年3月に初飛行し、最高時速430km/h、航続距離2,800kmの性能を示した為、すぐに量産が開始されることになった。しかし、装備していたエンジン(イソッタ・フラスキーニ・アッソ10RC15 液冷エンジン)がややアンダーパワーであることが指摘され、エンジンをさらに強力な物に換装することになった。この型はZ.1007bisと呼ばれ、かなりの性能向上が見られたため1939年から生産開始された。Z.1007bisは本機の主力生産型になった。 カントZ.1007は、全木製の3発低翼単葉機で、イタリア空軍の他の主力爆撃機SM.79、BR.20に比べるとなだらかなラインを持ったより近代的な機体であった。速度や航続距離はSM.79を上回っており、武装や機体の信頼性はBR.20より優れていた。ただし、全木製の構造故に気候が極端な場所での運用には適しておらず、アフリカ方面の戦線では満足に働くことができなかった。バリエーションとして双尾翼と単尾翼の型が存在するが、性能的に大きな変化はない。 1940年9月からZ.1007bisがベルギーに派遣され、バトル・オブ・ブリテンにも導入された。ただし、爆撃の主力はBR.20で、本機は後方で牽制行動を主に行った。その後はギリシアを初めとするバルカン戦線と、シチリア、サルディニアを基地とする地中海方面を中心に活動した。戦線の拡大により、一部はアフリカ北部やソ連方面でも使用された。 1943年になって、さらに強力なエンジンに換装した型が出現した。これがZ.1007terで、爆弾の搭載量が減少したが最高速度は500km/hに向上し、航続距離も2,250kmに伸びた。 総生産機数は561機で、内訳は、Z.1007が35機、Z.1007bisが476機、Z.1007terが50機である。

2012年9月25日火曜日

CF-100 カナック(カナダ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(CF-100 カナック)

CF-100 カナック(Canuck、「カナダ人」の意)はアブロ・カナダ社が製作したカナダ軍の全天候ジェット戦闘機。親愛の情を込めて「クランク」(Clunk、「ドスン」「ガタン」等に相当する擬音)とも呼ばれる。1950年に初飛行し、冷戦時代の防空に従事した。本機は、カナダで設計され、量産された唯一の戦闘機である。 乗員はパイロットと航法士の2名が縦に並び、翼は直線翼、エンジンはターボジェット2基を胴体の左右に並べて翼の上に置き、片発停止時の安定を確保していた。水平尾翼は垂直尾翼の中ほどに位置している。
CF-100は水平飛行では音速を超えられなかったが、1952年12月18日に、アブロ社のチーフ開発テストパイロットであるヤーノシュ・ズラコウスキが、CF-100 Mk.4の試作機によって30,000フィート(約9,000m)の高度からのダイブで音の壁を突破している。

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2012年9月24日月曜日

メッサーシュミットMe210/410(ドイツ空軍重戦闘機)

情報元:Wikipedia(メッサーシュミットMe210/410)

メッサーシュミット Me210/410 は第二次世界大戦前にドイツで開発された双発プロペラの重戦闘機である。

メッサーシュミット Bf110の後継機として開発された、Bf110と同じく双発二人乗りの駆逐戦闘機である。Me210の改良型がMe410で、Me410は、当初はBf110を上回る性能を発揮し連合国の爆撃機の迎撃に活躍した。 しかし後期になるにしたがい、爆撃機護衛の単発戦闘機の高性能化により活躍の場を失い、その後は本来の戦闘機としての任務よりも航続距離の長さを生かした偵察機、戦闘爆撃機としての任務に活躍した。

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2012年9月22日土曜日

サーブ 17(スウェーデン空軍偵察爆撃機)

情報元:Wikipedia(サーブ 17)

サーブ 17(Saab 17)はスウェーデンのサーブ社が開発した偵察爆撃機

本機の開発は当初、ASJA社(AB Svenska Järnvägsverkstädernas Aeroplanavdelning)によるL-10として1930年代後半に開始されたのだが、1939年のASJAとサーブ間の経営統合にともないサーブ 17と改称された。 急降下爆撃機として使用するため、設計にあたっては翼の強度が重視された。本機にはエンジンの異なる3種の派生型が存在する。B 17Aはスウェーデン製のプラット・アンド・ホイットニー R-1830を、B 17Bはライセンス生産のブリストル・マーキュリー XXIVを、B 17Cはイタリア製のピアジオ P.XIをそれぞれ装備している。 サーブ 17は通常の車輪のほか、スキーやフロートを装着可能であった。カバーの大きなランディングギアを下げることで、ダイブブレーキ代わりに用いることができるのは本機のユニークな特徴である。 初飛行は1940年5月18日で、スウェーデン空軍への配備は1942年である。しかし、当時はジェット機の時代が到来しつつあり、本機が運用された期間は短かった。スウェーデン空軍では1950年までに全機退役。そのうち46機はエチオピアに売却され1968年まで使用されている。

2012年9月21日金曜日

ホーカー タイフーン(イギリス空軍戦闘爆撃機)

情報元:Wikipedia(ホーカー タイフーン)

ホーカー タイフーン (Hawker Typhoon) はイギリス空軍 (RAF) の戦闘機。1941年からホーカー・アビエーション社で生産された。邀撃戦闘機であったホーカー ハリケーンの代替が目的だったが、性能面に問題があった。しかし、第二次世界大戦で最も成功した戦闘爆撃機のひとつと数えられるまで発展した。

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2012年9月20日木曜日

MiG-3(ソビエト連邦空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(MiG-3)

MiG-3(ミグ3;ロシア語:МиГ-3ミーグ・トリー)は、ソ連のミコヤン・グレヴィッチ設計局が開発したレシプロ戦闘機(後に戦術偵察機)。 MiG-1を原型として、高々度用に過給器を付けた液冷エンジンミクリンAM-35Aに換装した高々度戦闘用の高速戦闘機である。 最大速度640km、実用上昇限度は12000m。 MiG-1からの改修点として、エンジンの変更に伴い補助燃料タンクを増設していること、キャノピー形状を変更して操縦席からの後方視界を向上させたこと、主翼の上反角を増やして機体安定性を向上させたこと、などがあげられる。 3000機(3300機という説もある)が生産されたが、上記エンジンの生産中止に伴い、生産を終了した。

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2012年9月19日水曜日

ノースアメリカン B-25 ミッチェル(アメリカ陸・海軍爆撃機)

情報元:Wikipedia(@@)

B-25 ミッチェル (Mitchell)はノースアメリカン社によって開発・製造されたアメリカ合衆国の双発中型爆撃機のこと。

本機は第二次世界大戦中のあらゆる局面において用いられ、連合国に敵対するドイツと日本に対する攻撃に使用された。「ミッチェル」の愛称はアメリカ陸軍の将校ウィリアム・ミッチェル准将にちなむ。なお、アメリカの軍用機のうち個人名が愛称として採用されたのはこのB-25「ミッチェル」のみである。派生型を含めた総生産数は約10,000機。
開発は1938年より開始された。初飛行は、1939年1月29日。主翼は中翼配置であり、レシプロエンジンを2基装備している。尾翼は双垂直尾翼である。
B-25を運用したのはアメリカ陸軍・海軍だけではない。オーストラリア、イギリス(900機以上)、中華民国、オランダ、ソ連を含む国々によって多数のB-25が運用された。
B-25が爆撃機として日本で一躍有名になったのは、1942年4月18日のドーリットル空襲(太平洋戦争でアメリカによる初の日本本土空襲)のときであった。またアメリカでは1945年7月28日にニューヨークのエンパイアステートビルディングに激突炎上した飛行機としても有名である

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2012年9月18日火曜日

F-104J(自衛隊戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-104 スターファイター)

F-104 は、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機。愛称はスターファイター (Starfighter)。

F-100 スーパーセイバーに始まるセンチュリーシリーズの一員とされ、また、第2世代ジェット戦闘機に分類される、アメリカ合衆国初のマッハ2級のジェット戦闘機。初飛行は1954年2月。
細い胴体に短い矩形の主翼を持つ小型軽量の機体にゼネラル・エレクトリック社の強力なJ79型エンジンを一基搭載している。その卓越した高速性と形態はミサイル(当然無人である)を彷彿させ「最後の有人戦闘機」とも称された。
アメリカ空軍では短い期間の運用に終わったが、冷戦下において日本やイタリア、台湾や西ドイツなど世界15ヵ国で供与・運用された。ベトナム戦争のほか、第二・第三次印パ戦争等の実戦に投入された。 高度な操縦・整備技術を要し、高価であった事もあり、発展途上国への供与はF-5A/Bへ譲られたが、ライセンス生産を含め2,578機が生産された。初飛行後から半世紀を経た2004年、イタリア空軍に所属したF-104S退役を最後に全機退役となった。

F-104J
日本の航空自衛隊向けの迎撃戦闘機型。1962年から178機が三菱重工業によりライセンス生産された。機銃は、後期の機体は最初から装備しているものの、実は当初は標準装備でなかったようだ。初期の機体は装備しておらず、後に全機ではないものの改修で取り付けた。装備しなかった機体はその搭載スペースを増設タンクという燃料タンクに当てていた。そのほか、4発のサイドワインダー空対空ミサイルを搭載できるが、爆撃能力は持っていない。一部の機体は米国経由で台湾でも使用された。1995年退役。

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2012年9月17日月曜日

He 115(ドイツ空軍水上雷撃機)(スライド動画)

情報元:Wikipedia(He 115)

He115は第二次世界大戦中にドイツの航空機メーカー、ハインケルが製造し、ドイツ空軍が使用していたレシプロ双発水上機である。当初は雷撃機として開発されたが、次第に沿岸哨戒や機雷敷設任務に使用されるようになった。

戦争初期にHe 115は英国南岸の海の交通量の多い港近くの狭隘な水路に機雷をパラシュート投下する任務に使用されており、テームズ川も主要な目標であった。しかし、He 115にとって最も輝かしい時期は、ノルウェー北部の基地から北極船団を攻撃する任務に就いていたときであった。これらの船団には初めの頃に航空機による援護がついていなかったため、低速で比較的軽武装のHe 115でも重対空防御の英国沿岸を飛行していたときのように大きな問題にはならなかった。
後に航空母艦や護衛空母、ペトリャコーフ Pe-3bisの様なソ連の重戦闘機が随伴するようになると船団上空の制空権は変化し、その結果ドイツ側の雷撃機の損失は増大した。
機雷敷設や雷撃任務での運用から外されるとHe 115は沿岸偵察任務に使用された。

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ドイツレベル 1/72スケール ハインンケル He115 B/C 水上機(アマゾン)

2012年9月16日日曜日

He 115(ドイツ空軍水上雷撃機)

情報元:Wikipedia(He 115)

He115は第二次世界大戦中にドイツの航空機メーカー、ハインケルが製造し、ドイツ空軍が使用していたレシプロ双発水上機である。当初は雷撃機として開発されたが、次第に沿岸哨戒や機雷敷設任務に使用されるようになった。

戦争初期にHe 115は英国南岸の海の交通量の多い港近くの狭隘な水路に機雷をパラシュート投下する任務に使用されており、テームズ川も主要な目標であった。しかし、He 115にとって最も輝かしい時期は、ノルウェー北部の基地から北極船団を攻撃する任務に就いていたときであった。これらの船団には初めの頃に航空機による援護がついていなかったため、低速で比較的軽武装のHe 115でも重対空防御の英国沿岸を飛行していたときのように大きな問題にはならなかった。
後に航空母艦や護衛空母、ペトリャコーフ Pe-3bisの様なソ連の重戦闘機が随伴するようになると船団上空の制空権は変化し、その結果ドイツ側の雷撃機の損失は増大した。
機雷敷設や雷撃任務での運用から外されるとHe 115は沿岸偵察任務に使用された。

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2012年9月15日土曜日

零式艦上戦闘機二一型(大日本帝国海軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(零式艦上戦闘機)

零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は第二次世界大戦期における大日本帝国海軍(以下、海軍と表記する)の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん、れいせん。“ゼロ戦”とも)の略称で知られている(以下、零戦と表記する)。海軍の艦上戦闘機(以下、艦戦と表記する)としては実質的に最終型式で、日中戦争の半ばから太平洋戦争の終戦まで前線で運用された。
零戦は太平洋戦争初期、2200kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能によって、米英の戦闘機に対し圧倒的な勝利を収め太平洋戦線の占領地域拡大に貢献し、米英パイロットからは「ゼロファイター」の名で恐れられた。零戦の性能は太平洋戦争初期には米英戦闘機を凌駕した。しかし大戦中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、アメリカ陸海軍の新鋭機の大量投入、多数の熟練した零戦搭乗員の戦死によって、零戦は劣勢に追い込まれた。零戦は大戦末期には特攻機としても使用された。
零戦の開発元は三菱重工業(以下「三菱」という)であるが、三菱のみならず中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。零戦はアメリカ陸軍のP-51マスタング、ドイツ空軍のメッサーシュミット Bf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として知られている。

当時の日本の軍用機は、採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっていた。零戦の「零式」との名称は、制式採用された1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、その下2桁が「00」であるためである。
なお、「(戦時中、英語は敵性語として使用を制限されていたから、)『零戦』を『ぜろせん』と読むのは誤り」と言う者もあり、一時は定説のように思われていた。しかし、戦時中の新聞報道に「兵士たちにはゼロセンと呼ばれており……」という記述があることからも、「ぜろせん」「れいせん」の両方が使われていたと考えられるばかりか、そのまま報道もされていた。渡辺洋二の著書や坂井三郎を始めとする関係者の話からも、「ぜろせん」という言葉は当時から一般的であり、中央から現場(実戦部隊)にいくにつれて「れいせん」より「ぜろせん」、時代が下るにつれて「れいせん」より「ぜろせん」と呼ばれる傾向が読み取れる。1942年(昭和17年)後半以降は部隊では「ぜろせん」であったらしく、1944年(昭和19年)11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際も「荒鷲などからは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されている。これに対し、“ゼロファイター”の和訳が戦後一般化したという一見それらしく思われる説には、根拠が存在しない。 連合軍が零戦に付けたコードネームはZeke(ジーク)。だが米軍側の将兵もZero(ゼロ)と呼ぶ事が多かった。
ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、Hamp(当初はHap)というコードネームがつけられた。

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2012年9月14日金曜日

F-15E ストライクイーグル(アメリカ空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(F-15E ストライクイーグル)

F-15Eは、マクドネル・ダグラス社(現ボーイング社)が開発した戦闘爆撃機(マルチロール機)である。愛称はストライクイーグル(Strike Eagle:攻撃する鷲、の意味)。

マクドネル・ダグラス社(当時)がF-111の後継機として開発した、F-15制空戦闘機の改良・派生型で、第4.5世代ジェット戦闘機に分類される直列複座(後席は兵装システム士官)の戦闘爆撃機である。1986年の初飛行後、1989年より量産機の運用を開始した。湾岸戦争やイラク戦争などの実戦にも参加している。
F-15B/Dとの外見の差はほとんどないが、搭載量の増強や確保や機体寿命の延長のための再設計は機体構造全体の6割に及び、電子装置類の大幅な更新も考え合わせると、内部はほぼ別の機体となっている。
コンフォーマルタンクと呼ばれる固定増槽を装備した副次効果で得た多数のハードポイントとF-15譲りの充分な余剰推力により発揮される兵装搭載量の大きさ、及び、同じくF-15からそのまま受け継いだ対空戦闘能力が大きな特徴といえる機体である。
1989年12月よりアメリカ空軍が運用を開始し、他にもサウジアラビア・イスラエル・韓国・シンガポールで運用中である。
アメリカ空軍では、搭載可能兵器の多様性と大搭載量への評価から、F-22やF-35Aと共に主力戦闘爆撃機として2035年まで全戦力を運用し続ける予定。輸出向けの生産は現在も続けられている。

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2012年9月13日木曜日

B-2 スピリット(アメリカ空軍戦略爆撃機)

情報元:Wikipedia(B-2 スピリット)

B-2はアメリカ空軍のステルス戦略爆撃機である。開発はノースロップ・グラマン社が担当した。水平尾翼および垂直尾翼がない全翼機と言う特徴的な形をしており、愛称はスピリット(Spirit、魂、精神の意)。
この機は同重量の金と同価値といわれるほど非常に高価で、少数しか生産されていない。B-2は1機ごとに「Spirit of ~(大半は米国の州の名)」のパーソナルネームが与えられている。

B-2の開発は、ステルス性や長い航続距離などの要求の下に1978年から開始された。その当初は、ソビエト連邦の防空網をかいくぐり、ICBM発射基地や移動式ICBM発射台に短距離攻撃ミサイルにより核攻撃を加えることを主目的としていた。開発初期は極秘プロジェクト(Project Senior C. J.、後にATBと改名)として当初米空軍上層部ですら開発は機密扱いであった。ATB(Advanced Technology Bomber、先進技術爆撃機)という計画名は知られるようになったものの、1988年4月に想像図が公表されるまでは公式情報はほとんどなかった。
B-2の開発は米ノースロップ・グラマン社と米ボーイング社が共同で行い、米ボーイング社がコックピット部と本体の中央部、残りをすべてノースロップ・グラマン社が担当した。1982年に6機のプロトタイプ用の予算が組まれ、1988年11月22日に最初の機体82-1066がパームデールのアメリカ空軍第42プラントからロールアウトされた。セレモニーは非常に慎重に計画され、招待された500名のゲストは地上からはB-2の正面のみ閲覧が可能であったが、上空からの規制は手が抜かれていて小型セスナ機により上空から撮影された写真が残されている。
初飛行は当初1989年7月15日に予定されていたが(予算編成時は1987年の予定だった)燃料系のトラブルのため延期され、最終的には7月17日にエドワーズ空軍基地にて行われた。
2012年現在では、20機保有している。

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2012年9月12日水曜日

Su-30(ロシア空軍戦闘機)

情報元:Wikipedia(Su-30)

Su-30(スホーイ30、スホイ30;ロシア語:Су-30スー・トリーッツァチ)は、Su-27UBを発展させた複座多用途戦闘機。ロシアのスホーイが製造し、インドなどでもライセンス生産されている。
Su-30のNATOコードネームはフランカーF1 (Flanker-F1)、Su-30M以降のNATOコードネームはフランカーF2 (Flanker-F2)。

1986年にソビエト連邦では防空軍向けの長距離迎撃機の開発を開始し、1988年に試作機Su-27PUを初飛行させた。Su-27PUは、量産化に伴ってSu-30と名称変更され、機体形状は基本的に複座型のSu-27UBと同じであるが、ファザトロンN001トパーズ・レーダーを搭載している。
Su-30を複座多用途戦術機としたのがSu-30Mで、TV指令誘導システム、対レーダーミサイル誘導システムなどの対地攻撃兵装用システムを装備し、航法装置もより精度の高いものになっている。Su-30Mの輸出基本型Su-30MKでは搭載電子機器はオプションで西側製に変更可能で、フランスのセクスタン・アビオニク社製パッケージを装備できるほか、インド向けのSu-30MKIはイスラエル製の電子戦システムを、マレーシア向けのSu-30MKMは南アフリカ製の警戒システムを装備している。
Su-37にて研究されたカナード翼と推力偏向ノズルを装備したSu-30M2が1997年7月1日、Su-27UB改造機が1998年3月23日にそれぞれ初飛行した。1998年6月15日にはインド軍関係者へ披露されている。これらの要素がSu-30MKIには取り入れられている。インドは1996年11月30日にSu-30計50機(MK8機、K10機、MKI32機)の購入契約を交わし、1997年3月からSu-30MK及びKがSu-30MKI完成までの繋ぎとして引き渡しが開始された。のちにこの18機はロシアに返却され、KN仕様へと改修されており今後ベラルーシが取得する可能性がある。2002年からはSu-30MKIの引き渡しが開始され、さらに222機がインドでライセンス生産されつつある。
1999年8月には中国空軍がSu-30MKKの採用を決定し、2000年12月から引き渡しが開始された。Su-30MKKは、マッピング機能を含む空対地モードを拡張したN001VEレーダーを装備し、コクピット前席にはMFI-9カラー液晶多機能表示装置2基、後席にもMFI-9表示装置1基とMFI-10表示装置1基を装備している。また中国海軍がSu-30MK2を採用した。
マレーシアでも2003年5月19日に新多用途戦闘機として採用し、2006年からSu-30MKMの引き渡しが開始されている。
2007年7月30日の『エルサレム・ポスト』によると、イランがSu-30を購入するためロシアと交渉しているという。
ベトナムでもSu-30MK2を12機調達予定であり2011年12月31日現在、4機の引き渡しが完了している。しかし、このベトナムへの納入と同型機が、2012年2月28日、右側のエンジンからと見られる火災によって、墜落した。

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2012年9月11日火曜日

ビッカース ウェルズレイ(イギリス空軍爆撃機兼偵察機)

情報元:Wikipedia(ビッカース ウェルズレイ)

ビッカース ウェルズレイ(Vickers Wellesley)は、第二次世界大戦前のイギリス空軍で使用されたヴィッカース社製の爆撃機兼偵察機である。ヴィッカース社独特の大圏構造を最初に採用した軍用機だった。また、1938年にエジプト-オーストラリア間の無着陸飛行の当時の世界記録を達成した機体としても有名である。第二次世界大戦開戦時には既に時代遅れになっており、北アフリカ戦線等で偵察機として1941年まで使用された。

2012年9月10日月曜日

ベル P-39 エアラコブラ(アメリカ陸軍航空隊戦闘機)

情報元:Wikipedia(ベル P-39 エアラコブラ)

ベル P-39 エアラコブラ(Bell P-39 Airacobra)は、第二次世界大戦初期に活躍したアメリカ陸軍の単発レシプロ戦闘機。同国の航空機メーカーであるベル・エアクラフト社によって開発された。

形態は珍しく、胴体中央(操縦席の後)に液冷式のエンジンを置き、プロペラ軸を通った大口径機関砲を機首に装備した。これは主に機関砲の安定性を保つための仕組みであったが、エンジンを中央に置くことで運動性も向上すると見込まれた。また、前輪式降着装置(米国の戦闘機では初めて)を備えたため離着陸時の視界も従来の戦闘機と比べて良好だった。 実用型では排気タービンを外され一段一速過給器のV-1710エンジンのため高高度性能が貧弱で、英国に輸出された機体(P-400)は期待はずれの性能(カタログスペックに満たず、ホーカー ハリケーンより劣ると評価された)により、僅かに使用されただけで運用中止、1941年12月からソ連へのレンドリースに回されてしまった。
一方、太平洋戦線では米陸軍やオーストラリア軍に配備されたP-39及びP-40が日本海軍の零戦と戦い、やはり中高度域での性能、特に加速性が零戦には及ばなかった事から、不利な戦闘を強いられた。
しかしソ連に4773機が送られ、1942年5月から空軍及び防空軍に配備されたP-39は、大変な好評をもって迎えられた。対地支援任務を主とするソ連空軍では戦闘機でも低空域での空戦がメインであり、高度による性能低下に苦しむことなくその本領を発揮できたのである。以前は他の戦線での低い評価により、37mm機関砲による対地攻撃任務に活躍したと思われていたが、ソ連崩壊以降伝わってくる記録や当時のパイロットの話によると、ドイツ戦闘機との空戦において十分対抗できたとされており、事実、多くの有名エース・パイロットが搭乗している。ソ連軍では機動性を優先し、翼内機銃やガンポッドを撤去して機首武装のみで運用された。また東部戦線で運用されるアリソン・エンジンの寿命は短く、頻繁に交換する必要があったとのことである。
同時期にアメリカ海軍も同等のXFL「エアラボーニタ」を艦上戦闘機として試作要求したが、こちらは本採用は見送られた。
後継機として、同じレイアウトで高度による性能低下問題を解決した発展型、P-63「キングコブラ」が採用されたが、P47、P51といった優秀な新型機の配備が進むアメリカ陸軍ではほとんど使用されず、やはりソ連に渡り活躍した。
初飛行は 1939年4月で、戦闘配備は 1941年初期。
日本軍のパイロットからは、その形状より「カツオブシ」と呼ばれた。

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2012年9月9日日曜日

ダッソー ミラージュIII(フランス空軍戦闘機)

※フランス空軍の動画は見つかりませんでした。上の動画はスイス空軍のものです。

情報元:Wikipedia(ダッソー ミラージュIII)

ミラージュIII(Mirage III)は、フランスのダッソー社製の戦闘機である。デルタ翼が特徴的な単発機であり、各国へと輸出されている。Mirageはフランス語で幻影あるいは蜃気楼のこと。

1952年より開発が開始され、ミステールを発展させたデルタ翼機ミステール・デルタを提案したが、翌年にフランス空軍から朝鮮戦争の教訓を踏まえた新たな性能要求が出され、軽要撃戦闘機としての性格を固めた。この要求にはダッソー以外にも、ブレゲー、ノール、モラン、シュド・エスト、シュド・ウェストの各航空機メーカーも応えて試作機を提案している。この内、最終選考まで残ったのはだんシュド・ウエスト SO.9000 トリダン、シュド・エストSE212デュランダール、そしてダッソーミステール・デルタの3機種であったが、いずれの機体も小さ過ぎてレーダー類などを搭載する性能的余裕がないことが判明した。
このためフランス空軍は1956年にマッハ2クラスの新世代戦闘機の開発要求を発表し、ミステール・デルタの拡大型を製作、1956年11月17日初飛行を遂げた。高速試験中、エアインテイクの形状により試作機の速度が頭打ちになり、ロケット・ブースターを装着してもマッハ2に達しなかったため改良を施し、マルチロール性能を追加した結果、わずかに大型化したミラージュIII Aとして、1957年に採用、1958年5月12日に初飛行した。同年10月24日の飛行試験でマッハ2に達し、ヨーロッパ諸国が開発した機体としては、初めてマッハ2を超えた機体となった。なお試作機同様、量産機も機体下部に補助動力としてロケット・ブースターを装備できるが、実際に使用された例はほとんどない。
本格的に生産が開始されたのはC型からで、要撃性能に集中して改良を加えた結果、シラノ火器管制レーダーを搭載し、固定武装としてDEFA 552 30mmリヴォルヴァーカノン2基を装備、後に翼下パイロンを2基に倍増して胴体と合わせて5基となった。フランス空軍は95機を発注し、1961年5月から部隊配備が開始された。C型をベースにした複座練習機型のB型は、C型と比べて胴体が60cm延長され、火器管制レーダーと機関砲が外されているが、必要に応じて装備できるようにスペースは空けられている。
輸出が開始されたのもC型からである。次いで戦闘攻撃機型のE型が完成したことで生産の主力はE型へ移行し、さらなる支持を得た。E型は機内搭載燃料が増加し、レーダーもシラノIIに換装され、機首下部には新たにドップラー航法レーダー(採用国によっては装備しないこともあった)が装備されている。これにより胴体が30cm延長された。フランス空軍はE型を183機配備し、戦術核兵器の運用能力も付加した。E型に対応する複座練習機型のD型は、ガンカメラの搭載により機首先端がB型より細くなっている。
E型をベースに偵察機としたのがR型で、機首の火器管制レーダーを撤去して偵察用カメラを5台搭載し、固定武装は残された。R型にドップラー航法レーダーを搭載した全天候型もあり、RD型と呼ばれる。
完成度の高い機体となったミラージュIIIは広く輸出され、多くの派生型を産んだ。その中には、電子機器を簡易型に換装し500機以上を輸出したミラージュ5、エンジンを強化型に換装したミラージュ50、ミラージュF1につながるSTOL試験機ミラージュIII F2等の他、他国で生産・改修された、ネシェル・クフィル・チーター・パンテーラ等の派生機・コピー機も存在する。生産は長期に渡って続けられ、最後の機体が完成したのは試作機の初飛行から実に36年経った1992年のことだった。
現在では既にフランスを含む多くの運用国で退役しているが、アルゼンチンやパキスタンでは現在でも第一線機として運用されている。特にパキスタンは各地で退役した機体を大量に入手しており、ミラージュ5を含めて150機以上を保有している。
なお、ミラージュIはミステールのデルタ翼改造型ミステール・デルタの再改造型を、ミラージュIIはミラージュIIIと平行して検討された双発型を指す開発中の呼称であるため、ミラージュIIIがシリーズ初の実用機となる。

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